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板祐生 ―― 人とコレクション
稲田セツ子/「祐生出会いの館」調査研究員


[9] 郷土玩具が結んだスタール博士との交流

大正12年8月、スタール博士(左から2人目)と祐生(左端)=安来市の清水寺で
シカゴ大学名誉教授で人類学者であったフレデリック・スタール氏は、東洋の研究に専念するために大学を辞し、大正12年8月13日、11度目の来日を果たしました。この時の日程には「山陰行脚」が組まれ、博士のたっての希望により山陰の代表的趣味家、板祐生のコレクションを訪ねることが決まりました。大正12年8月23日のことです。

先に大神山神社や名和氏の祖先を参拝し、淀江町の古墳遺跡調査などを終えた後、特別仕立ての自動車で一路山田谷分教場へ向かいました。祐生は、道中に日米の国旗を使って歓迎門を作り、五月幟を立て、門松まで立ててお迎えしたという記録が残っています。途中まで出迎えた祐生は、博士と初対面の感激はひとしおであったと語っています。
祐生が校長と用務員を兼務している分教場で小休止した後、居宅の一室で珍しい納札や切手、ポスター等々膨大な蒐集品が公開され、博士は一つ一つに驚嘆の声を上げ、「あまりインスピレーションが多くて言葉になりません。すばらしい板氏の宝物た」と喜びと感動を表現しています。
日本の伝統風俗を喜ぶ博士を村は挙げて歓迎しました。正月左義長に始まり、雛祭り、五月幟り、ちまき、菖蒲酒、虫送り、七夕祭等、祐生考案準備による“四季のお祭り”を実際に展覧に供したため、博士は大喜びで「一日に一年を見た」と語ったと言います。
夜は夜で、安来節、どじょうすくい、盆踊り等、村人は心尽くしのおもてなしをしたと書かれ、山田谷は見物人でごった返し、
スタール博士が祐生に贈った博士揮毫の色紙
想像を絶する不夜城の如き一夜であったとも伝えられています。

博士は、「おもちゃを持たない民族は滅びる」とし、「未来まで日本の郷土玩具を残そうと思うなら、私たちの努力に寄らなけれげならないのです」と揮毫し、祐生に思いを託しています。
博土の大正12年の訪問以来、昭和8年に亡くなるまでの10年間のおつき合いは、祐生にとってかけがえのないものであるとともに、博士の日本玩具界に残した功績は計り知れないものがあります。
筆者は、昨年、スタール博士が静かに眠る富士のふもと須走を訪れ、博士の墓碑を目の前にした時、万感胸に迫るものが涙となって溢れ出ました。改めて博士の死を悼むとともに、心からなる哀悼の意をささげたのです。

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