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板祐生 ―― 人とコレクション
稲田セツ子/「祐生出会いの館」調査研究員


[13] 祐生を助け育てた人的ネットワーク

「黄金(こがね)よりなお尊きは人の心の情け」と説いた祐生には、いろいろな集団の支援者がいました。
祐生が巌谷小波に贈った郷土玩具「大山の竹馬」への礼状
趣味人の集まり「我楽他宗」、玩具蒐集と研究の集団、版画の交換を目的とした「榛の会」、土俗研究、趣味の雑誌を通した集団などによる人々です。

1911(明治44)年、祐生が21歳の時に巌谷小波(いわや・さざなみ、童話作家)に「田舎のお正月」と題して一文を発信しお返しに小波叢書を贈られました。これが縁となり巌谷小波との交流が始まります。その頃、郷里の画家持田稲香(もちだ・とうこう)の指導を得ながら坪内逍遥(つぼうち・しょうよう、小説家)、食満南北(けま・なんぼく、脚本家)、西沢笛畝(にしざわ・てきほ、日本画家)、川崎巨泉(玩具趣味家)ら一流の趣味家と文通や玩具の交換をしています。18(大正7)年、「我楽他宗」に入門するきっかけとなった斉藤昌三(趣味家)との出会いは、祐生の趣味の世界を一層豊かなものにしました。版画が絵描きの余芸ぐらいにしか思われていなかった時代に、祐生の孔版画を初めて全国に紹介した料治朝鳴(りょうじ・ちょうめい、版画家)、そして「榛の会」の会員として光を当てた武井武雄(童画家)など、これだけでも驚くべき人脈といえますが、それに加えて近年、山口昌男著「内田魯庵山脈」(晶文社刊)に祐生が登場してより、筆者は祐生が大正期の一流趣味家のことごとくとつながりがあったことを知り、改めて驚きました。

薄給のため高価なものは集められない。人様が捨て去るものを頂くしかない」と嘆いた祐生にとって、金銭的な援助を惜しまなかった方々も多くありました。とりわけ橋田素山(納札研究家)が教えたという、大阪の画廊「柳屋」の主人、三好米吉は、
大阪「柳屋」の主人三好米吉の魚眼写真
祐生に心酔し、亡くなるまで物心両面にわたる援助を続けた人でした。この思いを祐生は、「柳娘」(富士の屋草紙18 昭和3年)に「…私の好きな柳屋。私の趣味を育ててくれた柳屋。大阪へ出たら柳屋だけはのぞかう…」と。けれども、それは見果てぬ夢に終わっていまったことでしたが……。

草深い分教場の一室から大宇宙に向けて発信し、巨大なネットワークを築き上げ、一大コレクターとしての道を歩んだ板祐生――。彼の人生は決して平坦なものではなかったにせよ、学童に囲まれ、趣味に没頭し、孔版画に生きた一生は、夢に描き続けた「絵更紗」の生活ではなかったかと思われてなりません。

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