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板祐生 ―― 人とコレクション
稲田セツ子/「祐生出会いの館」調査研究員


[6] 優美な芸術品「手拭い」

梨二つ 手拭いにつつみ 湯のかへり 宮川柯月園
欄干に 手拭い干すや 帰る雁 小山内薫

「今時、タオルなら分かるが手拭いなど……」という若者がほとんどという時代になりました。
祐生は、手拭い号「草にそよぐ」(富土の屋草紙29 昭和6年刊)で、「手拭いの起こりはかなり古く、室町時代になって高位の人は一尺の白木綿、大衆は三尺の浅黄木綿を用いた。徳川幕府に至り、半染め絞り、豆絞りと順々に意匠化され、模様染抜きにまで発展したのは江戸末期で、さらに明治、大正と染技の進むにつれて優美なものが見られるようになった(丹頂会趣意書の中より)」と記しています。

昭和初期に全国的に「手拭い」交換会が誕生しました。松山桜洲氏の「丹頂会」は、東京日本橋牡蠣殻町に、中林峯昇氏の「美蘇芽会」は、大連市越後町にあってそれぞれに趣のある手拭いの製作に心血を注いでいました。
この高雅な意匠手拭いが月に一種ずつ頒布されるということで祐生も会員となり、多くの人に入会を促しています。
このころ、名古屋では多能趣味会というものがあって、
劇画手拭い「雪」と「助六」。ともに松田青風画
濱島静波氏をはじめとする趣味家仲間が趣向を「十ニケ月に因める趣味の手拭い」を、染は名古屋松坂屋が入念丹精の別染という品を頒布しています。また、大正期には既に越後の国は柏崎の町に花田屋呉服店があり、童心あふれる花田屋手拭いを数枚祐生に送っています。

祐生の手拭いコレクション500枚の中でも一段と格調高い「劇画手拭い」は、昭和8〜9年に12枚シリーズで松山手拭い店から頒布されたもので、画家の松田青風の原画によるものです。歌舞伎の世界を心僧いほど美しく描いた逸品といえます。「手拭い」は、限られた大きさの中に見る一級の芸術品で、祐生は美的センスでこれを愛し蒐集したのです。

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