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板祐生学入門
[9] 小学校教師と謄写版(続き)
文/志村章子

教育現場における謄写版の位置は、近代日本人にとって独特です。早い時期から堀井商品を専門に販売する会社があり、行商人が全国の山漁村まで足を運びセールスをしたのです。注文を取って、堀井から納品するシステムでした。
教師たちは、謄写版の使用方法を師範学校で学ぶわけではありませんが、美しい謄写印刷物が作れること、板書が上手なことが、優れた教師の一面だったことはたしかです。
ようするに、全国の学校には謄写版があり、先生たちは謄写版の使い手であり、子供たちはテスト、父母へのお知らせ、通知票などのインクのにおいまでを記憶に止めています。また、謄写版で先生と一緒に印刷した思い出を持つ人も多いですね。

山村の小規模校、村役場にも必ず謄写版がありましたが、大正、昭和に入っても個人で持つ人は少なかったそうです。
学校、村役場に謄写版を借りに行った話はよく聞きます。同人雑誌の作り手たちの例、近代最初の社会運動といわれる足尾鉱毒事件の国会への請願書などは、村役場の謄写版で印刷されたと思われます。村民全体の生活、生命に関わる問題でしたから。
詩人の宮沢賢治は大正15年までには自分用の謄写版を所持していた、まれな例です。賢治の手がけたガリ版印刷物は、花巻市の記念館で見られます。

歴史学者の鹿野政直氏論文「大正デモクラシーの思想と文化」では、大正期の文化推進者として教員と青年をあげています。「文化が地域社会に入る場合、それをまっさきに受け入れ、呼吸し、それに別の生命をさえ与えていくのはおおむね小学校教員と青年である」と言っています。「地域」「文化」「生活」などがキーワードです。
大正から昭和へ時代が進むと、小学校教師たちによる「生活綴り方運動」が盛んになります(鳥取県下では?)。全国各地の教師たちは郵便によって互いのガリ版文集を送りあい、「文集の上で手をつないだ」といわれます。お互いに名前と文集の名はよく知っているのに一度も会ったことはないのです。文集ネットワークといったものですね。
このように小学校教師たちは、最もガリ版に馴染みが深かったのではないでしょうか。祐生も「家庭練習帳」(夏休み宿題帳?)、「子ども新聞」等を夜中の1時、2時まで印刷することもありました。毎日続くので「本日もまた活版屋をやる」と日記にあります。実際は謄写印刷です。数十年にわたってローラーを握り続けて指の変形した先生を知っています。祐生の手はどうだったのでしょうか。

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