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板祐生学入門 [7] 拡大するネットワーク 文/志村章子 明治という時代は「玩具でさえ、お国のためになるか、教育に貢献する玩具」といった一種の重苦しさがありましたが、大正時代は独自の軽やかさが感じられます。祐生が加わった「珍道楽」「我楽他宗」のような交流ネットワークはかなり存在していました。祐生も「郷土紙研究会(封筒会)」その他、いろいろに加わっています。収集家を結び、個々の収集品を紹介、交換するなどの利便性をもった雑誌も誕生(「鳩笛」ちどりや・田中俊次)します。こうした専門雑誌の誕生は、収集家の量的増大、地域の広がりを示すものです。 「この趣味が普及されてからは、都会はもちろん、山の奥の交通不便な所の人でも、思わぬ収集趣味家ができている。こう広がってみるとお互いに他人の収集品が見てみたい、知ってみたい、云々」こうしたニーズに合致した雑誌なのです。当時、祐生のような“隠れた”趣味家が各地に散在していたわけで、もちろん祐生も読者のひとりです。 さて、玩具の趣味家たちは、おもちゃ絵を記録してのこしています。どのような目的があったのでしょうか。“おもちゃ博士”清水晴風、西沢笛畝の人形、玩具画集、また、地元の文化人であり、祐生の仕事の紹介者でもあった吉村撫骨などもおもちゃ絵を残しています。祐生の場合は、廃れ行く玩具の面影をのこすために謄写版を用いて、孔版画にその姿を止めたことに特徴があります。数百種の玩具が長く世にのこることはむずかしい。そこには、写生などでその記録をのこすことの必要という学術的目的がありました。こうしておけば、後世の研究者、趣味家へ伝えることができ、当時の玩具復活も期待できるというものでした。 分教場の先生にして収集家、祐生の家(分教場そのもの)に一人のアメリカ人が訪問します。関東大震災のおこった年、大正12年のことです。趣味のネットワークによって交流を深めたフレデリック・スター(スタール)というシカゴ大学教授、専門分野は文化人類学。日本の民衆文化に関心の深い人でした。 明治・大正期の趣味人のユニークなネットワークについては、私の基調報告に続いて行われてパネルディスカッションで、河上進さんから報告がありました。私は、日常のタテ型社会の重苦しさに比べるとき、趣味を切り口にしたヨコ並びの人間関係の豊かさを感じます。また、地域の人々が日本趣味のアメリカ人の訪問をどう感じたのか、インタビューしてみたいと思いました。私の職業的興味ですが。 板祐生学入門 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] [13] |
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