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板祐生学入門
[8] 小学校教師と謄写版
文/志村章子

コレクターであり、孔版画家。祐生のふたつの顔。これは有機的に結び付いて切り離せません。「出会いの館」の郷土玩具の展示は、収集玩具と孔版画が対になっていますが、これはここだけのユニークさです。
祐生の顔といえば、40年も教壇に立った小学校の教師を外すわけにはいきませんが、さらに今後は、郷土玩具研究者の顔にも注目、解明する必要も感じております(草紙や他誌への寄稿論文があります)。祐生の4番目の顔です。

ここでは、小学校と謄写版の関わりの深さについて述べます。
こんなことがありました。「出会いの館」の祐生コレクション案内人ともいうべき稲田セツ子さんとお話ししているとき、
「孔版画家の祐生をおっしゃる方が多いのですが、祐生はまずコレクターだったのです」
と言われました。時系列的に見てもそれはたしかです。収集開始は14歳ころ。謄写版を使って、自分新聞という性格をもった「龍駒珍聞」(1〜33)創刊が大正9年、有名な「富士のや草紙」創刊は14年を待たなくてはなりません。
「まず祐生はコレクター」という稲田さんの言葉はよいヒントになりました。そして、それ以前に祐生は小学校教師として、簡易印刷器 --- 謄写版の使い手だったことを位置づけたい、と思ったのです。

ある年齢層以上はご存知のように、謄写版は1894年、東京・神田の謄写堂(のち堀井謄写堂本店)から発売されています。発明人の堀井新治郎の開発意図は事務能率化であり、当時は大福帳に毛筆が主流でしたが、非能率な筆記用具は過去のものになり、ペン書きの時代を予測し、鉄筆方式を選択しています。
過去にも、こんにゃく版、ヘクトグラフなど、複数の印刷物を作るための道具はありましたが、やがて簡易印刷の分野においては、謄写版が勝利を占め、官公庁、軍隊、学校、企業、商店、団体等々、全国的に普及していきます。固有名詞が、簡易印刷器の代名詞になるほどの普及ぶりです。
明治の末に15年の特許期間が切れると、新規企業の参入で謄写業界も拡大していきます。創業者は「他人を儲けさせるために発明したわけではない」と文句を言ったという話を関係者から聞いたことがあります。

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