幅弓之助年譜[1900-1998]明治33年(1900) 1月24日、岐阜県武儀郡上牧村御手洗(現・岐阜県美濃市)に父市郎・母くらの次男として生まれる。上牧は隣の下牧とあわせて牧谷と呼ばれ、奈良・平安時代からの美濃紙の産地で、弓之助の生家も製紙を営む。 大正3年(1914) 3月、上牧村尋常高等小学校を卒業。稼業を手伝い、たまたま村で掘り当てたマンガン鉱の掘削などにも従事。 大正6年(1917) 9月、同郷の佐藤斉一氏を頼り、17歳で上京。その後、佐藤氏の創業した佐藤兄弟商会で、謄写版販売と謄写印刷技術を身につける。この間、のちに孔版技術の2大家と称された草間京平氏、若山八十氏氏らと知り合い、半世紀にわたる交流がはじまる。 昭和3年(1928) 11月、佐藤兄弟商会から独立、神田三崎町で「昭和謄写堂」を創業。「謄写版とその印刷」という看板を掲げ、器材販売と印刷請け負いを兼業。 《店は借家で、大家さんが本屋をしていたものです。間口二間、奥行三間半(七坪)、店が四坪、奥に三畳の台所、二階が六畳と四畳半、こぢんまりとした、まだ新しい店でした。(…)家を借りるのに二千二百円を使っています。内訳は、家賃七十円、敷金四百二十円、権利金千七百円、周旋屋礼金二十円、その他です。(…)只店を持っただけで、佐藤さんの援助を頼りにした相当無謀な開店でした。大八車に身回品の柳行李とフトンが三枚、台所道具は佐藤さん初め知人から贈られたものだけ、それ位でどうにか生活の恰好をつけたのです。》(「弓之助回想録」) 12月、石川県出身の平野きくと結婚。 《当時のこととて、神前だの仏前だのという面倒なことはなく、九段坂の写真館で写真を撮って、あとは店の二階の六畳間で三々九度の杯を交わし、料理を食べただけでした。》(「弓之助回想録」) 昭和4年(1929) 4月、はじめて店員1名を置く。さらに翌年、従弟の幅与四郎が入店し、店の基礎が固まる。 昭和7年(1932) 11月、最初の謄写印刷業者団体である東京謄写印刷業組合の結成に参加。 《まだ会社組織の店はなかったと思います。私共のように夫婦共稼ぎで、旦那が書いて、かあちゃんが刷る。住み込みの小僧さんが二、三人、それに専属やフリーの筆耕が何人といった店が多かったのです。 筆耕、印刷、製本、すべて手先の作業で、忙しい時には家中の座敷まで作業場に変わり、残業、夜業、徹夜が毎度のことで、あけがたやっと完成して納入、やれやれ疲れた、また明日かということもしょっちゅうでした。》(「弓之助回想録」) 昭和8年(1933) 2月、昭和謄写堂の処女出版として謄写印刷技術書『美術謄写印刷の実際』を発行。9月、謄写印刷技術と器材のPR誌『昭和堂月報』を創刊、昭和12年まで発行。 昭和16年(1941) 日本軍がハワイの真珠湾を攻撃して、太平洋戦争始まる。昭和12年の蘆溝橋事件、13年の国家動員法成立、14年の国民徴用令などを経て深まってきた戦時体制が、さらに厳しいものとなる。 《真珠湾攻撃の報を聞いたのは、たしか自転車で錦町の方へ使いに行った帰りでした。この時はみんな「勝った、勝った」と大騒ぎをしたものです。続いて十二月十日、大本営発表の臨時ニュースで、マレー沖海戦、英二艦撃沈の報を聞きました。しかし世の中は、いよいよ本格的な戦時経済下におかれ、衣料や食料は配給となり、謄写印刷の物資も極端に不足してきました。》(「弓之助回想録」) 昭和18年(1943) 清水高等商船学校からの受注を得、物資不足に一息つく。 《用紙も配給で、あとはヤミで手当てをしていました。ただ軍関係の仕事だけは紙支給だったので、業者はみんな軍関係の仕事を取ろうと一生懸命でした。うちでも東大の先生の紹介で清水高等商船学校の仕事をもらっていました。用紙は学校からトラックで配給され、出来上がると新橋の汐留駅から軍の証明で送り出すという、かなり恵まれた条件での仕事でした。》(「弓之助回想録」) 昭和20年(1945) 4月、空襲により、店舗、住居を焼失。当日、弓之助は家族を疎開させていた川越にいて、難を逃れた。翌日、東上線で池袋に出、交通が途絶しているため徒歩で伝通院のあたりまで来ると、焼けた日大のあたりが見え、店のあたりも焼き尽くされたのがわかった。 昭和21年(1946) 11月、バラック建てで店舗を再建。戦火で店を失った後、一家は妻きくの実家がある金沢に疎開していたが、三崎町の地主から土地を譲ってもらえることになり、店を再開する。店を建てる材木は金沢で手に入れ、木組みをして貨車で運んだ。 昭和23年(1948) 4月、『昭和堂月報』を再刊、昭和36年まで発行する。 昭和24年(1949) 4月、日大講堂で1週間にわたる「現代謄写印刷術大講習会」を開催。全国から258名が参加する。 昭和25年(1950) 4月、「株式会社昭和謄写堂」に改組、代表取締役社長に就任。前年来、店舗の拡張が続き、「謄写版のデパート」の看板を掲げた。 昭和28年(1953) 9月、(社)東京グラフィックサービス工業会の前身にあたる東京謄写印刷業組合(東謄印)の結成に参加し、常任理事に就任。 昭和30年(1955) 8月、(社)日本グラフィックサービス工業会の前身にあたる全日本謄写印刷業連盟(日謄連)の結成に参加し、監事に就任。 昭和32年(1957) 11月、東謄印理事長、日謄連会長に就任。 《どうして私のような者のところへ御鉢が回って来たかというと、東謄印初代理事長の佐藤さんにしろ、日謄連初代会長の勝呂さんにしろ、前任の方々が、いずれも機材を扱う業者でして、順序として私にも役が回ってきたわけです。また、うちにいた竹内さんが事務局長となった関係もあり、一度はお努めしなければならない仕儀でした。》(「弓之助回想録」) 昭和33年(1958) 10月、前2職を退き、日謄連顧問に就任。 昭和34年(1959) 7月、日謄連の結成に努力し、会長として業界の発展に寄与した功績により、日謄連から感謝状を受ける。 昭和35年(1960) 1月、日本軽印刷資材連合会(日軽資連)の結成に参加。 昭和37年(1962) 8月、組合役員として軽印刷業界の発展に尽くした功績により、東京軽印刷業組合から表彰される。 昭和40年(1965) 8月、日本軽印刷業組合連合会顧問に就任。 昭和41年(1966) 12月、多年にわたり業界振興に貢献した功績により、東京軽印刷工業会から表彰される。 昭和42年(1967) 8月、(社)日本軽印刷工業会名誉会員に推される。 昭和44年(1969) 7月、日軽印参与に就任。 8月、本社ビル落成披露を兼ねて、創業40周年パーティーを開催。社史『牛歩四十年』をまとめる。 昭和49年(1974) 4月、営業品目の比重が謄写印刷からオフセット印刷関連機資材に移ってきた実情にあわせ、社名を「昭和謄写堂」から「ショーワ」に変更。 11月、長年の会への尽力および業界発展のための貢献により、日軽資連から感謝状を受ける。 昭和51年(1976) 8月、多年にわたり会の発展に貢献した功績により、日軽印から特別功労賞を受ける。 昭和55年(1980) 6月、(株)ショーワ代表取締役を辞任、代表取締役に会長に就任。 昭和63年(1988) 11月、(株)ショーワから発行の『ショーワ60年史』に「弓之助回想録」を執筆。 平成10年(1998) 12月17日、満98歳で死去。没時、(株)ショーワ会長、(社)日本グラフィックサービス工業会名誉会員、(社)東京グラフィックサービス工業会名誉顧問。 |
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