謄写印刷 Who's Who


赤羽藤一郎(あかはね・とういちろう)
(準備中)

芥川清巳(あくたがわ・きよみ)
1904-1989(明治37年-平成元年)。北海道出身。大正末年から謄写印刷に携わり、ゴシック書体と美術印刷で知られる。1931年(昭和6年)草間京平と「技術謄写印刷研究協会」を開く。戦後、草間、千田規之とともに、最高水準の美術謄写印刷研究誌とされる『謄写研究』を発行。

浅野一郎(あさの・いちろう)
1908-1950(明治41年-昭和25年)。東京美術学校(東京芸術大学)卒。1937年から昭和謄写堂美術部に属して、『昭和堂月報』の製版などにあたる。業界ではゴシック書体の名手として知られ、一般画壇にも名の出始めた戦後、42歳の若さで病没。

有村博行(ありむら・ひろゆき)
1988-1964(明治31年-昭和39年)、鹿児島県出身。1916年から謄写印刷に携わり、1918年(大正7年)、中古謄写版を入手して謄写印刷業を始める。不特定の客から印刷を請け負った例としては最初期のものとされ、戦前の資料に《本邦謄写印刷業の始祖》とある。楷書体の名手として知られ、名刺大のスペースに百人一首をすべて印刷するなどの名人芸を発揮した。

板祐生(いた・ゆうせい)
1889-1956(明治22年-昭和31年)。鳥取県生まれ。生涯を生地で過ごしながら、謄写版刷りの個人誌『富士乃屋草紙』などに拠って、各地の文人と親交を結ぶ。独自に開発した切抜孔版画の手法による蔵書票、絵暦など、多くの作品を残し、また民間玩具やポスター、ラベルなどのコレクターとしても知られた。作品と収集品は地元の「祐生出会いの館」に保存・展示されている。(→「板祐生の世界」)

植本十一(うえもと・じゅういち)
1912-1976(大正1年-昭和51年)。画号浩嗣。エスペラントの学習中に、その会報が謄写版刷りだったことから謄写印刷の世界に入り、1934年(昭和9年)開業、昭和堂技術部にも名を連ねる。楽譜製版の第一人者、楷書体や美術印刷でも知られた。代表作に妻植本コユウ作の画文集『花咲くことば』。日本グラフィックサービス工業会の前身にあたる日本軽印刷業組合連合会で1962年(昭和37年)から1年間会長を務める。東京軽印刷工業会の初代会長を兼務。

菅野清人(かんの・きよと)
1905-1988(明治38年-昭和63年)。理論と実技の両面に秀でた異能の孔版技術家。『昭和堂月報』に連載されたエッセイ「暗穴回顧録」(大日本印刷刊『昭和堂月報の時代』所収)は、大正・昭和初期の謄写印刷界を活写して貴重。

草間京平(くさま・きょうへい)
1902-1971(明治35年-昭和46年)、茨城県生まれ、本名佐川義高。大正中期に上京、 郵便配達、人夫、出版社の校正係などをしながら、文学を志す。1920年(大正9年)に短歌の同人誌『孔雀草』を謄写印刷で創刊。1923年、作家有島武郎から資金を得て、芸術倶楽部アパートの一室で「黒船社」を設立、謄写印刷技術の研究と出版に取り組む。
謄写印刷の技法開発、機材開発、研究誌の発行、教育・普及活動に尽くし、謄写印刷技術の第一人者といわれた。創作を多く残した若山八十氏と対比して、「複製派」と呼ばれることがある。

小泉与吉(こいずみ・よきち)
1906-1972(明治39年-昭和47年)。富山県出身。高等小学校卒業後に創刊した同人誌『朗曜』が、大阪の大丸百貨店書籍部に並べられたのを機に1926(大正15年)に上阪、その後謄写印刷店を開業。パイロット文字と呼ばれるゴシック書体を開発し、1935年から1940年まで出した研究誌『謄写版』は全国的に高い評価を得た。戦後は郷里の高岡にもどり、「高岡謄写堂」を営む。

小谷博貞(こたに・ひろさだ)
(準備中)

小針美男(こはり・よしお)
1927年-(昭和2年-)。戦後版『昭和堂月報』のほぼ全期間にわたって、製版、編集に携わる。とくに後期は、企画、編集、執筆、製版、印刷のすべてにかかわり、高度な仕上げで『月報』の名を高らしめる。現在、孔版画、ペン画、エッセイと広い分野で活躍。

桜井義晃(さくらい・よしあき)
1921年-(大正10年-9。本名桜井文雄。業界でいちはやくタイプライターや写植機を取り入れ、近代化の先導役を果たす。全国団体の結成に尽くし、1963年(昭和38年)から日本軽印刷組合連合会の会長をつとめる。現在、株式会社広済堂会長。

佐藤斉一(さとう・さいいち)
1983-1967(明治26年-昭和46年)。岐阜県出身。戦前・戦後を通じた業界指導者の一人。大正中期に「佐藤兄弟商会」(後・ニットー)を創業、謄写印刷器材の販売を手がけ、1932年(昭和7年)最初の謄写印刷業者団体である東京謄写版印刷業組合を結成して組合長に就任。後、長く器材販売業者団体の長をつとめる。

勝呂泰尚(すぐろ・やすひさ)
(準備中)

千田規之(せんだ・のりゆき)
1902-1976(明治35年-昭和51年)。本名田畔孝。詩人。謄写印刷の世界では理論家としてしられ、1951年に書き下ろした『謄写印刷技術教本・印刷篇』(昭和謄写堂)は、共編の『謄写印刷初等教本・製版篇』とともに20年にわたるロングセラーとなる。ハンドメードのNS鉄筆を開発し、全国の技術者から珍重された。

竹内三二郎(たけうち・さんじろう)
1905-1978(明治38年-昭和53年)、本名山崎純一郎。大正末期から昭和初期にかけて講談社などで文筆に携わり、1932年頃から謄写印刷界と関わりを持つ。昭和謄写堂に断続的に勤務し、PR誌『昭和堂月報』や技術書の編集にあたる。戦後、業界の組織化に尽力し、日本グラフィックサービス工業会の前身である全日本謄写印刷業組合連盟および日本軽印刷業組合連合会で事務局長、専務理事を務めた。遺稿『日本軽印刷発達史』は、業界紙などに発表した年表を増補したもので、コピーを若山八十氏が保管して伝え、業界史の基礎資料となった。

寺田健(てらだ・けん)
1919年-(大正8年-)。組版に使用できる精度と機能を備えた和文タイプライターを開発し、謄写印刷の機械化を促す。理論と実践の両面で業界をリードし、近年はオフセット印刷の標準化に取り組む。現在コーハン株式会社会長。

友野康夫(ともの・やすお)
(準備中)

丹羽善次(にわ・ぜんじ)
(準備中)

幅弓之助(はば・ゆみのすけ)
1900-1998(明治33年-平成10年)、岐阜県生まれ。1917年(大正6年)上京、1928年(昭和3年)に「昭和謄写堂」(現ショーワ)を創業。
1932年、最初の謄写印刷業者団体である東京謄写版印刷業組合の結成に参加。戦後、日本グラフィックサービス工業会、東京グラフィックサービス工業会、日本印刷機材連合会などの前身にあたる諸団体の結成に参加し、業界の組織化に尽くす。1957年(昭和32年)から1年間、全日本謄写印刷業連盟会長、東京謄写印刷業組合理事長。→「幅弓之助年譜」

堀井新治郎(ほりい・しんじろう)
1856-1932(安政3年-昭和7年)。滋賀県生まれ。本名元紀。はじめ輸出向けの緑茶の改良、蚕業や米の改良などの仕事に携わる。醸造業を営む堀井家に入り、夭逝した当主に代わって耕造(2代新治郎)を養子とする。のち父子で簡易印刷機の開発に取り組み、1893年、元紀がアメリカを視察している間に、耕造は一家を率いて上京、赤貧の中で研究を続ける。1894年(明治27年)、謄写版の特許を取り、東京神田鍛冶町で「謄写堂」(後「堀井謄写堂」、現「ホリイ」)を開業。父子とも、生涯を謄写版の普及と発展に費やす。2代新治郎は1875-1962(明治8年-昭和37年)。

水谷清照(みずたに・きよてる)
(準備中)

八木寛(やぎ・ひろし)
(準備中)

山内不二門(やまのうち・ふじもん)
(準備中)

吉本時昌(よしもと・ときまさ)
1914-1994年(大正3年-平成6年)。第2次『昭和堂月報』の編集にかかわり、謄写印刷の業界人で固めていた編集陣に、当時の商業デザインのセンスと人脈を持ち込む。のち東京ディスプレイを設立し、生涯をデザイナーとして過ごす。

若山八十氏(わかやま・やそうじ)
1903-1983(明治36年-昭和58年)。北海道生まれ。本名、弥惣司。大正末期にアルバイトで謄写印刷の世界に入り、創作作品を多く残す。昭和17年(1942)、孔版画で版画会展、文展、国画会展に入選。同年、研究誌『孔版』を創刊、戦後も長年にわたって継続する。複製技術の第一人者とされた草間京平と対比して、「創作派」と呼ばれた。
創作活動や技術教育とともに、謄写印刷史の研究にもつとめ、没後、膨大な謄写印刷物と関連資料が遺族から日本軽印刷工業会(現・日本グラフィックサービス工業会)に寄贈され、「若山コレクション」として保存されている。また美術作品は町田市立国際版画美術館に収められている。

「昭和堂月報」の時代
ショーワホームページ
[参考資料] 黒水武夫編『後塵録』(1947年)、竹内三二郎編『佐川義高(草間京平)遺稿集』(1973年)、田村紀雄・志村章子編『ガリ版文化史』(1985年)、ショーワ編『ショーワ60年史』(1988年)、日本軽印刷工業会編『軽印刷全史』(1989年)、志村章子『ガリ版文化を歩く』(1995年)