孔版画家にして玩具コレクター 板 祐生の世界 -- 志村 章子 -- 以下は、『ガリ版文化史』、『ガリ版文化を歩く』などで謄写印刷の歴史を掘り起こしてきた志村章子氏による評伝です。「SHOWA NEWS」No.83(1998年11月)から転載しました。なお、板祐生に関するウェブサイトには次のものがあります。 板祐生について 板祐生のふるさと西伯町のホームページ。祐生の横顔を紹介し、切抜孔版画のカレンダーを掲載。 板 祐生 孔版画とコレクション Houki Express内「広報さいはく」のページ。板祐生と「祐生出会いの館」の全般的紹介。 忘れられた孔版画家 板 祐生(いた・ゆうせい 1889〜1956)をご存知だろうか。山陰・鳥取県の山村校の分教場教師だった祐生は、孔版画先達のひとりであり、郷土玩具などの収集家でもあった。生前、それぞれの世界で著名だったが、没後40年以上がたち、祐生というユニークな人物の存在も生涯をかけた仕事も、すっかり忘れさられた感があった。 3年前、ふるさとの西伯町(米子市から南方向に12キロ)に祐生の孔版画とバラエティゆたかなコレクションを展示した町立博物館「祐生出会いの館」がオープンして、伝説の人の全仕事が姿を現した。あらためて今、板祐生の仕事は注目を集め、ファンを増やしている。 祐生は、独自の切り抜き技法(ロウ原紙を小刀で切り抜いて版とし、ローラーで色を刷りこむ)を用いた孔版画家として知られる。そういえば、作家の名を冠した孔版画家の博物館の開設は初めてかもしれない。 公募で選ばれたという館の名前のように、時空を越えてさまざまな祐生に出会えるのがうれしい。 短かった業界との関わり 戦前に知る人ぞ知るといった形で祐生の名は知られてはいたものの、謄写印刷界との関わりはなかったに等しい。 業界リーダーで祐生と会い、ことばをかわした人は皆無なのではないだろうか。そもそも祐生が生涯に足跡を印した範囲はきわめて狭かった。東は鳥取市(100キロ強)、西は出雲市(約60キロ)というのである。「車酔いがひどかった」というのが、祐生を知る地元の人々の定説(?)になっている。祐生と会ったほとんどの人は、分教場の訪問者というわけである。 武井武雄(著名な版画家・童画家)主宰の賀状交換会「榛の会」の会員同士であった若山八十氏(祐生より14歳年少)も一度も会うことはなかった。 「この人は鳥取の人でガリ版業界に入ったのがすでに老境に近かった。早くから郷土玩具界で“富士のや草紙”の名で有名な人。その美麗極まりない蔵書票は遠く海外にまで渡り、数多くの年賀状や絵手紙やカレンダーを残している」(若山八十氏「思い出の孔版家たち」)といったくらいの情報しか持ち合わせがなかったとみえる。 祐生が“ガリ版業界に入った”というのは、戦後の5年ほど(昭和26〜31年)のことである。再刊「昭和堂月報」には、数回の寄稿文(「賀状私観」26年3月発行29号など)が、また全国リクリエーション展に祐生の孔版作品が出品され、推せんされて米国各地で開催の同展に展示されたこと、「謄写印刷60周年記念孔版文化展」(昭和28年11月)での孔版文化賞(特別功労賞)などの祐生情報が散見される。昭和謄写堂との関係は、祐生が社友だったことであるが、社友の名称、その内容についてはわからない。 このころ祐生は、法勝寺村役場勤務を経て、法勝寺保育所長となっている。 「4月から新設の町の保育所長になりました。子どもと共にいるのは、とてもたのしいことです。孔版はなまけていますが、絵暦だけはやりたいと思っています。」(「月報」昭和31年1月号「アンケート」)と年初の抱負を述べた祐生だが、次号(2月号)には訃報が掲載されている。66歳、現役での急逝だった。最後まで小さな子どもの中にいて、孔版画への夢を持ちつづける -- 祐生の生涯を象徴していると感じた。 戦後、祐生を“ガリ版業界”へ導いたのは誰だったのだろう。もっとも近いところにいたと思われる若山八十氏ではないようなのである。 山里の分教場で 板祐生(本名・愈良 まさよし)は、東長田村(現・西伯町)生まれ。高等小学校卒業後、15歳3か月で代用教員になった。日給は10銭だった。のちに正教員の資格をとり、地元校で定年まで勤めた。中でも法勝寺尋常小学校山田谷(やまとだに)分校勤務は長く24年に亙った。山村の子どもたちは、5年生になると本校に通うようになるのである。 「(私は)山の中の小さい分教場につとめている人間で学校が即住宅居である。公人としての富士のやは日かげものであるが、この10年間は勿体ないほどめぐまれた月日であった」(「富士乃屋草紙」第15号 鵲を見る日 「むだばなし」)と書く。校長も小使いもの何役もこなしながら、草紙をつくる暮らしに充足感も得ていたのであろう。 この職場兼住宅の山田谷で、「出会いの館」に展示される50点近い個人誌(「富士乃屋草紙」39点ほか)が生まれ、3万点におよぶ物を集めたのである。祐生の収集物は郷土玩具に代表されるが、絵馬、隈取面、扇子、納札、手拭い、ポスター、レッテル、貨幣、諸券(乗車券、入場券など)、切手、絵葉書、包装紙、広告、写真、新聞切り抜き、マッチのラベル、薬紙などは、その一例だが、関心のない人にとっては、がらくたの類であろう。 コレクターの系譜は江戸時代にさかのぼらなくてはならないが、当時も「旦那衆の道楽は、ひとかどの人物ならばかならず一つや二つの集めものをしていなければ恰好がつかなかった。くだらない金にもならない物集めであることが望ましかった」(「太陽」1998年8月号 荒俣宏「我、楽苦ヲ多クシテ蒐集ニ殉ズ」)のである。その精神は変わらずとも、薄給の祐生は、家計を切りつめての草紙発行、集めものであった。それも、一つや二つの部門ではなく、みんな(ゼネラル)であった。ものはすべて、その時代のおもかげを宿しているという認識からである。 圧倒されるもの集めパワー 祐生のもの集めのユニークさは、出かけて集めるのでなく、もの集めネットワークを構築し、国内各地、海外にも多種多様な支援者を経て収集したことであった。「富士乃屋草紙」などの作品を、そのお礼に送ることも多かった。 「先生に持っていってあげる」 子どもたちが、一枚のレッテル、駅弁の包装紙と先生の喜びそうなものをもって登校することもあった。いがぐり頭の分教場教師と着物姿の子どもの姿を彷彿とさせる。 「山陰日々新聞」(大正12年8月3日)には“隠れたる趣味家”祐生訪問記事が載っている。タイトルは“代表的趣味家の一人 一室は蒐集物で一杯”。「趣味で充満している分教場専属の狭い一室には擦れ切った畳の上に支那の偶像も郷土玩具もごっちゃに雑居し…(後略)」云々とある。 コレクターの資質なき筆者としては、祐生のもの集めパワーに圧倒される。加えて、「富士乃屋シリーズ」制作の最盛期でもある。夏休みに3点を制作したこともあった。充実した日々であったが、教師の余暇仕事をとうに越えてしまっている。昭和17年、父母たちによって板先生排斥の声が高まり、祐生は転勤を余儀なくされたことを記しておく。 山村にも大勢の謄写版販売員 祐生が代用教員として教育者の道を歩み出したころ(明治37年)、謄写版は農山漁村の役場、小学校にも普及されつつあった。明治の終わりころ、西伯郡の隣、日野郡日南町多里(当時・多里村)の役場には1台だけあったそうである。中学生だった多里村出身の伊藤義孝さん(東京・銀座 伊藤屋会長 1996年102歳で逝去)は、仲間で夜、多里村役場に出かけ、こっそりと同人誌を印刷したことを証言している。 祐生も、大正7年に山田谷分教場に赴任までに、謄写版での事務用文書や教材づくりを経験して、充分に馴染んでいたはずである。山内不二門の毛筆版もシェアを拡大していた。祐生は「富士乃屋草紙」第1号(大正14年)から、鉄筆製版、毛筆版を併用している。はじめのころは、分教場の印刷器で、草紙が刷られたと考えるのが自然だろう。 明治末期になると謄写版の特許期間も切れ、各地に器材メーカー、販売店、プリント業、官庁・会社への派遣筆耕業などが台頭する。 祐生は、収集品だけでなく、日記、手紙類、使用ずみの原紙までも大切に遺している。原紙の種類は多く、交通の不便な分教場にも大勢のセールスが訪れたことを知った。 「旧知福井平蔵君訪ね来りて謄写版のことを語る。氏は東京謄写堂(筆者注・東京の巣鴨にあった大手販売店。福井は大阪出張所員)の宣伝販売員である(後略)」 「先日買った地方のある謄写版店の特等原紙の質が悪く、インクがもれて難儀した……」 などと「富士乃屋草紙」の編集後記に記している。謄写版が軍や官公庁、大企業需要から、個人レベルへも広がり、業者の競合も激しくなりつつあった時期なのである。 力を傾けた「絵暦」 晩年の祐生が力を傾けたのが「絵暦」と呼んだ和紙に多色刷りを施した切り抜き技法によるカレンダーであった。50年間の孔版画制作の歩みを物語る“美麗極まりない”(若山)作品群であり、祐生が達成したオリジナル世界である。 祐生の製版、印刷技術は、あくまで自修によるものだった。文字製版は、彼の筆跡そのままの素朴さであるが、孔版画づくりにかける迫力には圧倒される。切り抜き孔版の開祖と呼ぶ人もいるのはうなずける。 切り抜き技法は、ある日偶然にもたらされた。教材の印刷中に破れた原紙から漏れ出したインクの跡を美しいと感じたのである。 初期の作品づくりの悩みは、謄写版用インクの油じみだった。油じみを克服し、祐生特有の色調にたどりつくのは石版用インクに変えてからである。そこまでの模索やプロセスについては、今のところ不明である。 切り抜き孔版を我がものにするために、祐生は日本の染色の型紙を研究していた形跡があり、「出会いの館」には膨大な染色型紙のコレクションも残されている。 働きあう玩具と孔版 工芸美を追究したデザインと共に色へのこだわりは並大抵のものではなかった。一色のために納得のいくまで、5回も6回もローラーを転がすのも珍しいことではなかったという。 「この謄写版刷りの雑誌ほど労多く効の少ないものはない。それを摺るのも製本もひとりでやるということは実際を知らない人々には想像もつくまいと思われる。けれども出来上がりはこんなに見すぼらしいものになる」(「江戸紫」第2号 大正3年)と嘆いた祐生も4年の研鑽を積んで、やっと自作孔版画の方向を見い出したようだ。 「謄写版の版画には木版にも石版にも見られぬ別な味があるのを発見した。(中略)謄写版の版画もまた芸術の領域に入り得ると思われる。」(「草紙」第16号 江戸あねさま 編集後記) 貧しかった祐生が、教材づくり用の簡易印刷器を創作活動の道具に選んだのは、木版、石版、活版その他の文明の利器に手が届かなかったからでもある。しかし、後世の人々に残してくれた美しい版画も、興味深いコレクションの数々も謄写版の存在なしには考えられない。 「出会いの館」の玩具と孔版画のセット展示はここだけのものである。「やがて姿を消してしまうであろう人形や玩具の形と色をとどめておきたい」と祐生は孔版画に遺したのである。 玩具、孔版画、謄写版、三者は互いに働きかけあって、祐生の世界を形づくっている。 |
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