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こだわりの山の会報『井の頭』 [3] 妻よありがとう 文/山田修司 ただ今、3月号(407号)を編集中ですが、1回だけガリ版会報を発行できなかった月がありました。それは平成4年6月号会報(338号)です。この年は、私の人生の中では痛恨の年でした。 この年のお正月のことです。妻が「お父さん、風邪とは違うような咳が出る」と言って病院で検査を受けました。2週間ほどして、ご主人だけで病院へ来てくれと連絡がありました。 「奥さんはあと3ケ月の寿命です。病名は肺癌です」医者の恐ろしいことばに「ガーン」と全身凍りつくような衝撃が走りました。毎年1回、2人で人間ドックに入って検査して異常はなかったのに。なんで、なんで、そんな馬鹿なことが……。 長女が高校3年で受験準備中、次女が中学3年で高校受験準備中、長男は小学校6年の正月のことでした。その日から、子供たちには病名を伏せての病院がよいが始まりました。病院には検査ということで入院している妻は、元気でにこにこしていて、病人には思えない。そしていつも「ガリ版の締め切りが近いでしょ。早く帰りなさい」と言ってくれます。 3月下旬、子供たちの合格が決まった時点で、つらいけど子供たちに話しました。「お母さんはもう1ケ月しか生きられないんだよ」泣き崩れる子供たちの前で私も涙があふれて呆然としているのみでした。 4月の初め、妻は個室に移されました。病室で長女が「お母さん、東京芸大の油絵科に合格したよ」と報告すると、もう表情がきつくなって苦しそうな妻もにっこりして「良かったね」と安心したようでした。 5月6日は妻の誕生日でした。何もしてあげることができない私ですが、これが最後の誕生日です。近くの宝石店で誕生石のエメラルドの首飾りを買い、小さなケーキで2人だけの誕生日をお祝いしました。 「元気になったら、お父さん、一緒にこのネックレスに合う洋服を買いに行ってね」 5月23日、妻はとうとう帰らぬ人となりました。48歳でした。19年間苦楽をともにし、いつもガリ版の締め切りを気にして手伝ってくれた妻にこの欄をお借りして「ありがとう」と書かせてください。 当時、6月号を途中まで書き始めてはいましたが断念し、山の仲間にワープロで6ページほどの会報を急遽作成していただいて発行しました。 以後、妻の代りに長女がガリ版を手伝ってくれて現在に至っています。 (「こだわりの山の会報『井の頭』」完)
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