ここでご覧いただくのは、竹内三二郎氏による西日本旅行記(1954年夏)の抄録です。このころ各地で謄写印刷業団体が次々に結成され、これと並行して全国団体結成の運動が進められました。この活動に携わったある人は当時を明治維新になぞらえ、またある人は大正以来の水平運動(部落解放運動)にたとえて振り返っています。たとえば、 《坂本竜馬と中岡慎太郎の銅像、実によい月夜でした。銅像と一緒に太平洋の空気を吸っていると思うとワクワクした気持ちでした》(日本軽印刷工業会『軽印刷』200号) と、高知の桂浜に立ったときの気持ちを振り返っているのは、全国組織結成運動で大きな役割を果たした桜井義晃氏です。この時代は、90年に及ぶ業界(謄写印刷-軽印刷-グラフィックサービス工業)の歴史の中でも、最も活気に満ちた時期の一つだったいうことができます。以下、北は北海道から南は鹿児島にわたった“志士”たちの活動のごく一端です。 なお、イラストとレタリングは、いずれも竹内氏の記事に添えられたものです。 (『昭和堂月報』No.58) (昭和29年)8月6日から19日まで、西日本各地を駈歩いてきた。7日岡山、8日高松、11日熊本の各地方協議会に出席することがその主要目的であったが、その他個人的に別府に於ては大分地区の業者と懇談し、高雄温泉ではN・K・B西九州支部総会に臨席し更に帰路を再び四国に渡り、松山から高知へ、 そして四国謄写堂・わだつみ研究所=タイプ原紙並にダイヤモンドスクリーンの製作研究所=を見学し、17日宝塚温泉に開催された東西両組合のタイプ印刷研究懇談会に出席し、18日岐阜に立寄り、大東タイプ工場を見学して帰京したものであった。 日程の半分は夜行列車(又は船)を利用の強行軍で、東京にたどりついた時には文字どおりくたくたになって一日中眠り呆けたものであった(…)。 熊本まで終始行を共にしたのは、東京から組合理事の桜井文夫氏、大阪から丹羽善次理事長他、杉井進、佐々木定一、吉田由助の三氏、兵庫から梶原茂信理事長であった。岡山、高松までは、この他大阪、兵庫組合有志10数氏が参加された。 各地方参加者は、岡山では、友野康夫氏他地元計8名、鳥取2、広島4、福山3、高松では、香川12、愛媛2、徳島2、岡山1、高知1、熊本では、熊本28、福岡1、長崎1、これに、前記の西下組が加わったので、各地とも30名を越す盛況であった。 各地方協議会は、何れも、地方業界と組合の現状報告に始まり、全謄連結成と西日本準備会加入の件、同準備資金募集の件、同準備委員選出の件、未組織各県単位別組合設立促進の件等の協議事項に次いで、印刷料金、製版料金、税金問題、技術問題、タイプ印刷、全謄連への要望等の懇談事項を討議し、更に懇親会に於て腹蔵のない意見が交換された。 (…)これらの方針が着々と各地に於て生かされている(…)。現在私の手元に連絡されているものは、岡山県謄写印刷業協議会の全県的単位組合への再組織、広島福山両組合の統一拡大、鳥取組合の確立、鹿児島組合の成立(8月11日熊本には参加できなかったが、同日組合創立総会が開催されたためである)、長崎市組合の全県単一組合への拡大強化、佐賀、大分各組合創立運動の活発化等であり、又、近畿地方に於けるただ一つの未組織地方とされていた京都組合も創立総会が開催された事もこの成果の一つとしてあげられる。これによって、西日本謄印業者の大同団結は近く完成され、東日本にに於ける活動が次の課題となっている。東京組合では東日本各地の組合並に業者団体、業界有志との連絡を求めている。 (『昭和堂月報』No.58) (昭和29年)8月6日夜、急行すいせいによって西下しました。同行する筈の東謄印組合理事桜井氏が午の特急で先行されたので、旅なれぬ一人旅、30分以上も並んで得た座席が左側で、どの停車駅もホームと反対側という不始末、僅かに、大船で、一杯のビールに喉を潤したのみでした。 車内は立っている人もチラホラという満員、扇風機の位置だけは聞きちがえなかったので、時に、うつうつと眠りました。新聞もよまず、ラジオもきかず、と、覚悟していましたので、覚めても、ただぼんやり、時に、隣の小父さんと話しました。(…) 7日8時50分大阪着、先行の人々や大阪組合の方々に迎えられて、9時25分発広島行に乗次ぎました。今度は誠に賑やかな一行で、ノロノロとうごめくローカル線の悪口やら、タイプ印刷の話やら、安心して一眠りとは考えただけのことでした。アイスクリームや、サイダーや、缶ジュースが廻ってきたり、夜行の労をという特別サービスの生ビールが松永氏から贈られたり、一行中の写真班を自認する兵庫組合理事長梶原茂信氏の愛機キヤノンが活躍を始めたり、まことに賑やかなことでした(…)。 午後1時30分岡山着、20年振りかで友野康夫氏にお目にかかりました。挨拶する間もなく、自動車に分乗して当日の会場である後楽園、浩養軒に向いました。 (…) 夢流荘雑記(『昭和堂月報』No.59) 岡山での会議は6時すぎまで、それから、記念撮影があって、懇談会が8時すぎまで、宇野行の列車は8時40分ですから、自動車から列車に運ばれたのみで、岡山では何も見ることが出来ませんでした。名物の桃だけは、津山の山田泉君が列車の窓から差入れてくれましたので、これから旅のなぐさめに、楽しみにしております。 高松までの連絡船は二等に変りましたので、お茶のサービスもあり、ゆっくりすることはできました(…)。甲板に上るとさすがに涼しく、満天の星に、十日あまりの月が、手のとどきそうな空に浮いていました。(…)高松港についたのは11時をすぎていました。港に近い旅館に落ちつき、風呂に入り、眠ったのは1時頃でしょうが、同室は、東京組の桜井・松永・両氏で、私より一まわりづつ大きくした巨漢揃いで、蚊帳の中がせまい程でした。(…) 書き落としましたが、岡山での御馳走は、洋食で、スプンやナイフやホークが沢山並べられましたが、桜井氏がお隣でしたから、みんな無事に使いこなしました。(8月8日、朝6時、高松・月の瀬旅館にて) 附記=これは家族宛の私信の一部で、孔版界とは縁の薄い記録となります(…) 夢流荘雑記(『昭和堂月報』No.61) 午後4時から、会議が“折鶴”という料亭で開かれました。7時すぎに終って、風呂に入り、宴会に移りました。(…)船は11時出帆でしたから、それまで市中を見物、ジョッキで呑むビールの味も又格別でした。大阪、神戸の大部分の人達はこゝから引かえしましたので、九州行は8人だけでした。 出帆のドラの音はよいものですわ。(…)船は昨夜の連絡船よりずっと大きい“にしき丸”で、(…)(こゝまで書いた所で船内放送がありました。来島海峡の入口で、操舵機に故障、只今調査中ですから、修理次第出航との事です)。 王朝時代から海賊の本場として知られた所ですが、海は鏡のようで、誰も、心配はしておりません。(9日午前6時にしき丸にて) 午後3時30分、別府に着きました。旧知の矢野氏他の方々のお迎えをうけて、海岸通りの宿に落ちつきました。9日と10日は会議の予定はありませんので、ゆっくり湯に入って皆さんは夜の遊らんバスに乗りました。(…)私だけ、友人達と夜の町を歩きました。珍しく静かなビヤホールに入って、2時間ばかり、孔版の技術の話をしました。(…) 朝は、例によって5時起床、正面から、真ッ赤な、東京の10倍も大きな太陽が上ってきました。(…)(10日、午前7時30分、別府高砂ホテルにて) 10日は1日中、汽車と自動車に揺られました。(…)阿蘇外輪山の長いトンネルを抜けると、汽車は、阿蘇谷の大平原に滑りこみ、大きくうねって、山腹に向いました。山登りには自信がありませんので、 大阿蘇の山容を、足元から仰いだ時には、一寸気押されましたが、駅前の茶店ごとに、大地から吹上げる湧水の、その冷たさに喉をうるおすと、新らしい力も湧いてくるようでした。 往復2時間のバスで、歩くのは、火口までの1キロだけ、(…)記念撮影にスナップに、梶原氏のキヤノンが盛んに活躍しました。(私が一番やせてみえるのは旅のつかれという訳ではなく、同行の桜井氏吉田氏等巨大漢ぞろいだからです。(…)(11日朝5時、阿蘇・湯の谷温泉蘇峰館にて) |
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