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板祐生と仲間たち
青砥 徳直 (板祐生研究家)


本稿は、2000年2月に銀座・伊東屋ギャラリーで開催された「孔版画に生きた板祐生の世界」展におけるトークの記録です。先ごろまとまった「平成11年度祐生出会いの館活動報告書」から転載しました(一部略)。(2000.8.23)


ここ数年、板祐生の資料を整理したり、資料を集めたりしておりました関係上、ここでお話をさせていただく機会を得ましたことをまずもってお礼申し上げます。

祐生の育った町、西伯町

板祐生の育ちました西伯町というところを概略申し上げます。東京から東名高速・名神・中国道・米子道を通りまして750km程ございます。この銀座に着くまでに車で約11時間かかっています。
鳥取県は昔『因幡の国』と『伯耆の国』という2つの国でございました。因幡の国は、因幡の白兎ということでご存じではないかと思います。それよりも西側の伯耆の『伯』という字を使いまして、西の方、一番西にありますので『西伯町』という町になったわけでございます。
この西伯町の隣に日南町という町があります。この日南町は、非常にこの伊東屋さんと深いかかわりのある町でございます。先代の伊藤義孝会長さんがお生まれになったのがこの日南町でございます。そういう縁もございまして、この度こちらでこういう機会を作っていただいたわけでございます。
西伯町に『祐生出会いの館』というのがあります。ここに展示しております資料すべてを収蔵しており、その中のほんの一部を持って参った訳でございます。収蔵する資料の総数は孔版画・コレクションを含めまして4万点以上になるのではないかと思いますけど、実のところその総てを整理し終わっていないということでございまして、はっきりした数はわかりません。私の出番がまだまだあるかなと思っております。
板祐生は本名を『いた まさよし』と申し、号の『龍齋(りゅうさい)』というのを姓名判断してもらったらあまりよろしくないということで『祐生』と換えております。現在は『祐生(ゆうせい)』というのが一番よく通じています。祐生は『青駒陽之介(あおまようのすけ)』というペンネームも使っております。これは『青駒(せいく)』という小さな本を作ったときに使ったペンネームです。
祐生の生まれましたのは東長田村今長、現在は西伯町今長となっています。高等小学校を卒業して15歳で代用教員となり、それから人生の大半を小学校の先生として過ごすことになります。その大半が法勝寺尋常小学校山田(やまと)谷分校の先生でした。当時のことを記録したものをみますと、この分校を我が物顔に使っていたらしく、この分校に郷土玩具などをしっかり並べていたという記録があります。
祐生には女の子どもさんが2人いました。長女は11歳で次女は20歳で亡くなってしまい、そういうことから生涯集め続けたといわれる郷土玩具に愛着をもったのではないかと思います。

祐生の収集活動

祐生は郷土玩具をはじめとしていろいろなものを集めています。その一部を紹介します。ここに展示しています郷土玩具は鳥取県と島根県の玩具が主体です。コレクションの中で一番多いのがポスターです。いま「祐生出会いの館」では博覧会のポスターを展示していますが、日本のビールの歴史のポスター、デパートのポスターなど1400枚ほどあります。このポスターを整理するのがまた大変で、当時のポスターの紙がもろく、折りたたんだところがとくにひどく扱いに苦労しました。日本の船、日本の鉄道のポスターなどもあります。展示している手拭いは風流ものと言って歌舞伎に登場するものですが、他にも500枚くらいのコレクションがあります。中には歌を染め抜いた手拭い、春夏秋冬のテーマを持った手拭いもあります。その他にも酒のレッテル、醤油・缶詰のレッテルなど膨大な数に及んでいます。
祐生がこのようなものを集めるきっかけとなったのが『日本我楽多宗』に入門したことです。『十徳山龍駒寺(じっとくざん たっくじ)』という寺号をもらっていろいろなものを集めていました。これはユニークな方たちの集まりであったようです。スタール博士、日本ではお札博士として有名ですが、この博士の耳に入りましてスタール博士が東京からはるばる祐生のところを訪ねました。

孔版画作品のはじまり

祐生は大正10年頃から謄写版を使って孔版画を作ることを思いつきました。最初に作ったまとまったものは『おもちゃと絵馬』というもので16ページくらいのものでした。先生方の研究会の折りに発表したテキストのようなもので大正10年の6月に作っています。
大正13年頃には東都肉筆交換会の事務局をしており『江戸紫』という機関誌を作りました。6・7巻出しておりますが現存しているものは2冊しかありません。祐生の作品でまとまったものが『富士の屋草紙』39巻です。ここに展示できるまでには大変な思いをしました。
祐生の作品は平成2年頃から整理をし始めましたが『富士の屋草紙』で残っていたのは39冊の内6冊くらいでした。なんとかこれをまとめたいと思い、近くに鳥取大学の医学部の先生が何冊か持っておられることがわかり、家まで出向いてコピーさせていただきました。残された資料の中には刷ったままで本にならなかったものがかなりあり、その中から拾い集め、コピーと見比べながら4冊ほど作りました。白い糸でとじてあるものがそういう風にして作ったものです。しかし、まだ30冊ほど足りません。当時『富士の屋草紙』を配っている会員さんを調べました。そして、持っておられる方のところでコピーや写真を撮らせていただき、「もし手放されるようならぜひ譲っていただきたい」と約束して帰りました。そういうことがあってようやく38冊集めることができました。残りの1冊もぜひ集めたいと思っております。
この他にも『富士の屋文庫』も作っております。これは5冊だと思いますが記録が残っておりませんのではっきりわかりません。『髫髪歡賞(うないかんしょう)』という本もあります。これは全部で6冊あり、内容は郷土玩具を中心にしたものです。この他にも、『青駒(せいく)』『愛玩人(あいがんじん)』などがあり全部を集めると100冊くらいにはなります。
この他にも、釜山の清水完治さんが『土偶誌(でこし)』というのをかなり作っておられまして、その表紙を祐生が印刷しております。『陸奥のこけし』というのもありますが、これのもとを書かれたのは青森県弘前市の木村弦三さんです。
戦時中は紙不足のため本などは作れず『絵手紙』『きびがら』などを作っています。紙のない時代でもなんとか頑張って小さなものでも取り組んでいました。

祐生の孔版画が世にでる

祐生の孔版画がみなさんに知られるようになったのは料治朝鳴さんとの出会いがあってからです。料治さんが当時『白と黒社』を主宰しておられ『版芸術』という本の中で『山陰道玩具集』に祐生の孔版画が載せられたことで世に知られるようになった訳です。
祐生は切り抜きの孔版です。今ではシルクスクリーンというのがあって、薬品などで切り抜くことができますが、当時はガリ版に使いますロウ原紙を小刀かかみそりの刃を折って使ったのではないかと思います。それぞれの色毎に版を作り印刷し、実際には謄写版には張り付けないで、このままローラーをかけていたようです。1枚では弱いのでロウ原紙に熱を加えて2枚を1枚にして使っていたようです。
そして、武井武雄さんとの出会いもありました。武井武雄さんは童画が本来の仕事であったようで、長野県岡谷市のイルフ童画館に作品が納められています。この方との出会いにより『榛(はん)の会』に入りました。50人の会員が毎年年賀状を自分で刷って交換するというもので20年間総てに参加してきた人は9人です。祐生も1回目から出したのですが落選。2回目から19回この会に参加していたようです。祐生のことですから『榛の会』の年賀状を綴じ込んだアルバムもあっただろうとは思いますが、祐生が31年に亡くなってから後、資料が保存されている間に無くなったのではないでしょうか。定かではありませんが。
『榛の会』が続けられた昭和10年から29年の間には大変な時期もありましたが、20年間続いて来たと言うのは大変なことだったと思います。中でも第7回目のアルバムの装丁は木綿の布で祐生の妻さきのさんが手織りで作ったものです。会員全員に配られています。
祐生は絵暦を昭和21年から作っています。すべて切り抜き孔版画で、数字はかなり苦労して刻んだようです。蔵書票も作っています。九州の元満亥之助さんの力添えで50人の会員を募って50枚の蔵書票を作り、これをひとまとめにしたものが『杏青帖(きょうせいちょう)』に貼り込んであります。

祐生の残したもの

祐生の孔版画を「白粉のような朝霧が山肌を薄くぼかし、稲穂に宿る露がきらりと光る白味がかった朝を思わす色調である」このように言った人がありますが、うまい表現だと思います。
祐生は晩年「自分が集めたものが役に立つことは大変うれしいことだ」と書き残しています。祐生のコレクションは決して高価なものではなく、タバコの空き箱、弁当の掛け紙など生活のなかに残されていたものを集めたにすぎません。これらは祐生の人柄によって全国から集まってきたのではないでしょうか。
これだけの資料が残ったのは住んでいたところがよかったと思います。山の中であったからこそ残ったのではないでしょうか。祐生の生きている間の一番大切なときに戦争という時期もありました。当時としては非国民的な目で見られたのかも知れません。
祐生の生きた時代は良かった。生涯を通じてこういうことができた。こういうことに熱中できたことは幸せだった・・・。そういう時代に思いを馳せながら終わりにいたします。
●SHOWA HP