現代謄写印刷術大講習会 『SHOWA NEWS』No.69、No.70(1995-1996)所収「昭和24年、日大講堂の熱い日々」より抄録 すごい講習会になるぞ 講習会の話は、幅家の新年会の席で持ち上がった。計画は2月頃から本格化し、草間京平氏、千田規之氏、竹内三二郎氏らが中心となって、講師の依頼や会場の確保に奔走した。 当初の計画はそう大規模なものではなく、辻善司(現・ショーワ専務)によれば 「超一流の講師が集まって、密度の濃い講義を行う、こじんまりした講習会」 をイメージして進められた。しかし、講習会の予定が『昭和堂月報』などで紹介されると、地方では勝手にPR文書を作って配布する人まで現れて、当初の50人の定員では対応できないことが明かとなり、定員を100人、さらに200人に増やし、最終的には260人にふくれ上がって開催された。 「ふるえながら挨拶した」 と幅弓之助は自分の開会挨拶を振り返っている。「びっくりして、しどろもどろ、何をどうしゃべったか自分で分からないくらいだった」という。何よりも主催者にとって思いがけない参加者の数であった。 スターぞろいの講師陣 この講習会の魅力は、なんといっても講師陣が充実していたことである。 中でも、 孔版人のあこがれと尊敬の的だったのが草間京平氏で、 《孔版界の太陽・真の孔版人・孔版技術の生みの親・草間先生の講話を拝聴出来ることを最大の楽しみに上京した》(兵庫孔版社『孔版研究』)
現代謄写印刷術大講習会は、その草間氏の講義で第1日の幕を開けた。 この日の講義は謄写印刷の原理や歴史から、技術の基本にわたる一般的なものだったが、草間氏は北関東のなまりを残す《速射砲》のような早口で参加者を熱気に引き込んでいった。 初日午後は、菅野清人氏による楷書の講義が行われた。 当初、この講習会のテキストは昭和堂で用意することになっていたが、講師の間から自分たちで用意したいとの声が上がり、教材の作製は各講師に任された。はからずも参加者は、一流技術家が自ら製版したテキストを持ち帰ることになったが、菅野氏が用意した『楷書系版字の話』、『仮罫理論』、『仮罫技法』の3冊は中でも評判が高く、講習会の後も昭和堂から有料で頒布された。 名著誕生にも一役 第2日は、昭和堂技術陣の浅野一郎氏と千田規之氏による講義が行われた。 浅野氏はゴシック書体の講義と実習を行った。同氏は上野の美術学校(東京芸大)を出た画家で、業界歴は浅かったが、すでにゴシックの名手として知られ、理論や器具の開発でも注目を集めていた。浅野氏はこの年秋頃から闘病生活に入り、翌年12月に亡くなったが、同氏が残した名著『謄写印刷初等教本 -- 製版編』は、この講習会などを通じて準備された。好評のため、早くも氏の闘病中にオフセットで再版され、20年以上にわたるロングセラーとなった。 千田規之氏は、図形などの特殊技法を講義した。孔版界きっての理論家として知られ、千田氏の講義は難しいとの評判があったが、この講習会では本来の世話好きな面が出て、分かりやすい講義だったという。 第3日は、芥川清已氏と草間氏の講義があった。芥川氏はゴシック書体の名手として知られていたが、この日は後輩にゴシックの講義を譲り、自分は絵画などの製版技法を講義した。《絵画技法の全般に亙って、本講習会中最も生彩を放ち、地方孔版人にとっては最も有益なものであった》という。草間氏は、上級者向けのテクニックを講義、実演した。 全国から260名 以上の3日間が、「普通科」と称して行われた前半の講習である。 参加者は東京の94名を筆頭に、北は北海道の2名から、南は長崎4名、佐賀1名まで32都道府県の計260人に及んだ。顔ぶれは、キャリア1、2年の初心者から、すでに各地で活躍していた中堅にわたり、この講習会の参加者の中から多数の業界指導者が出た。 間もなくタイプ印刷の実用化に成功して、業界近代化の道を開いた寺田健氏(現コーハン社長)も、詰襟姿でこの講習会に参加している。その後版画家として活躍した星襄一氏、孔版指導者として結核療養者などの社会復帰に力を尽くしたことで知られる中島徳治氏らの名が受講者名簿にあり、草間氏の弟子として「黒船工房」の名を引き継いだ赤羽藤一郎氏、「黒船印刷」を設立して軽印刷業界で初めて電算写植機を導入した八木寛氏も、この講習会に参加していた。 参加者の7割は地方からの上京者であるが、当時の経済下では受講費(6日間通しで500円)や交通費の負担は大きい。ほとんどの参加者は旅館やホテルを利用することはできず、知人や親戚を頼って宿泊した。昭和堂で3畳間を与えられていた辻善司の部屋にも、若い受講者が逗留した。 聖地につめかけた熱狂的ファン さらににぎわったのは、牛込矢来町にあった草間氏の工房である。この工房は、原稿料代わりに昭和堂が提供したもので、新潮社の裏手に土地を確保して前年末にほぼ完成していた。研究生としてこの工房に住み込んだ八木氏の回想によれば、 《新居といっても、建坪は僅か七坪半でしたが、屋根裏高さ一尺まで使いつくしているのでした。まずその屋根裏部屋から整備しはじめたもので、階下はまだ内装中で、製版印刷から頒布会の事務まで、その四畳半で行われているのでした。(…)窓に面して長さ九尺に二台の印刷器がありました。それも私達が氏の巧緻な作品をみて想像していた特殊な機械ではなく、実に簡素なものでした。しかしその全部が氏の考案で、また手造りで、外観こそ杉材を使ったお粗末さでしたが、見れば見るほど、使えば使うほど、何とも表現できない魅力を感ずるのでした。》(八木寛「K.K PRIVATE PRESS素描」) この手作りの道具に囲まれた狭い工房に、連日講習会の受講者がつめかけた。話は毎晩深更に及んだという。この期間中に、草間氏の身辺でいろいろ物が紛失した。参加者によれば、《蓄音器用百回針で作った鉄筆、KSラボラトリー作の鉄筆、立体製版用硝子鉄筆等が先生の鉄筆の大部分であったが、この中KS製を除いて先生の手元から講習会期中に消えて行った》という。聖遺物に群がる熱狂的教徒といったところか。 一流講師がつぎつぎ登場 講習会の後半3日間は、「特殊科」として高等テクニックの講義や孔版周辺分野の講演が行われた。 第4日(特殊科初日)は、千田氏と菅野清人氏の講義があった。この日の収穫は、受講者として参加していた菅野一郎氏が、菅野清人氏から時間をもらって、グランド印刷の講義を行ったことである。この日、清人氏がリーダーとなって一郎氏の工房を見学し、参加者は40人を超えた。 第5日、草間氏と並ぶ孔版界の旗頭、若山八十氏氏が登場して講習会は後半の山を迎えた。若山氏は孔版を美術の域に高めた人物として知られ、すでに戦前、孔版画で日展に入選を果たしている。戦後は孔版界唯一の月刊誌『孔版』を主宰するかたわら、精力的に全国を回って指導につとめた。論客でもあったが、この日は実技の指導に終始して、《熱心な製版印刷の実際は、全会衆に深い感銘を与えた》という。 午後は、吉本時昌氏と植本十一氏の講義があった。吉本氏は新進の商業デザイナーである。伊勢丹で行われた「謄写印刷発祥55周年記念孔版文化展」で活躍して業界に知られた。植本氏は楽譜製版の第一人者である。楽譜の製版、印刷、製本から、楽典の基礎にまでわたって、全面的にノウハウを公開し、受講者を感激させた。 視野を広げた孔版界 最終日の6日目は、馬渡力氏、草間京平氏、有村博行氏の講義、講演があった。草間氏の講義はこの日も4時間にわたり、会期を通じて10時間に達した。 日本印刷学会の馬渡氏(当時常務理事)を講師に迎えたことは、後日、業界にとって意味を持ってくる。何よりも、一般印刷との間に関係(まだ、ごく細い糸であるが)ができた意義は大きい。「軽印刷」という言葉ができたのは昭和20年代であるが、馬渡氏がこの言葉を作ったという説がある。これには異説もあり、誰が最初に使ったかは今日では明らかにできないが、少なくとも同氏が「軽印刷」を積極的に流布させた一人であることは間違いない。 その馬渡氏が、凸版印刷や光村原色版印刷の社長、印刷学会会長、業界紙編集長、大学教授らとしたためた寄書きを、草間京平氏のもとに送ってきたのは、これから4年後の昭和28年のことである。寄書きには、 《孔版は印刷なり、右決議す》 とあり、謄写版で複製して『昭和堂月報』に掲載された。寄書きは、馬渡氏らの私的メッセージに過ぎないが、これがどれほど孔版人を力づけたかは、今日では想像もつかない。孔版人の自負にもかかわらず、《粗悪な素人の印刷》(『明治事物起源』)と落としめられ、公的文書では《ただし、謄写印刷を除く》として常に差別されてきたのが、現実の孔版の歴史である。 講習会で馬渡氏は、「世界における簡易印刷術」と題して講演した。業界人が世界的視野で自分たちの位置づけを考えたのも、これまで例がなかった。 熱気にあおられた主催者側 200人を大きく超える参加者が一堂に会して、6日間も過ごした例は、長い謄写印刷 - 軽印刷の歴史の中でも空前絶後のことである。会期中に参加者の間で育った連帯感は、その後の業界運動のひとつの礎になったとされている。 後日、孔版界の重鎮若山八十氏氏は『孔版』誌上で、他の講習会に比べて知性の高いものであった、孔版の創作性について意識が高まった、吉本デザイナーや印刷学会馬渡氏の参加で広い視野から孔版を見直すことができた、などと講習会の意義をまとめた後、 《今回の大講習会開催という大きな仕事を欣然と快諾され、完璧に近い周到な準備と運営と接待に当られた昭和堂幅弓之助さんの御熱情に対して、深甚の感謝を申し述べる次第です。会期中再三「この仕事は私にはちと荷が重過ぎた」と話され、その初めから終り迄、一ケ月間ほとんどこのことにのみ忙殺され、家業を顧みる処のなかった程の献身(…)、孔版人に対する理解と惜しむ処のない犠牲心の提供は、必ずや今後とも有為孔版新人の輩出に寄与する処が多いと存じます。》(『孔版』5月号) と昭和堂の働きをねぎらった。とはいえ、裏方を努めた昭和謄写堂の立場は、むしろ業界人の熱気にあおられたもので、幅や辻にとっては愉快で充実した日々として記憶されている。 |
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