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ガリ版ネットワーク日誌 [2003年7月] 7月某日 小劇団Tsuchiproによる「てのひら ― 活版印刷工場の人々 ―」の公演がウエストエンド・スタジオ(西武新宿線新井薬師駅下車)で始まったので、出かけてみた。ガリ版が劇中で大きな役割をになうことになるということで、代表の土屋さんがすでに来宅し、ネットワーク所蔵の謄写印刷器一式(1930年代のもの)を貸し出していた。舞台は、軍部の締めつけが強化され、民間の印刷工場の機械も活字も、聖戦遂行のためと強制的に献品となった時代である。「原稿をもらって印刷する工場もない」と嘆く主人公(土屋が熱演)に、工場主である兄は「ガリ版印刷をしよう」と答える。印刷工場の新しい出発を象徴するネットワークの古いガリ版が堂々の出演!! 7月某日 高崎の木村静子さんを訪問。父の中西泰さんは、前橋大気堂に勤務の後、泰文堂を開業、10年前に閉店している。倉庫には謄写器材が残っていて、いくつかのものをいただいて帰った。社名入り方眼ケイの原紙などは、まだかなりの在庫があった。日々姿を消していく謄写器材だが、最後まで残るのは原紙であろう。大量生産されたこと、数十年は優に使用できる品質を保てるからである。化学製品であるタイプ原紙では、そうはいくまい。 7月某日 富山市の文具店から大量の原紙(3ミリ、3.5ミリ方眼ケイなど)の寄贈があった。「なんども処分しようと思いながらも、なぜか捨てられなかった原紙を受けとっていただいてうれしい。今も大切にガリ版を守っている会に感動しています」という手紙も添えられていた。寄贈者の宮原祝子さんは50歳。ガリ版プリントで育った世代で、今でも「ガリガリ」という音が耳にのこっているそうである。“なぜか捨てられない”のは、自分史にガリ版の記憶がしっかり根づいてしまっているからである。近未来には、ガリ版の記憶のまったくない世代が、いともあっさりと古くて汚いロウ原紙として処分することだろう。 10年ほど前、取材で訪問した京都の文具店のことが思い出される。古参の社員が退社時に毛筆謄写版を包装して史料として倉庫の片隅にのこした。近所に住むその人は、駈けつけてきて探してくれたが、遂に見つからなかった。戦後、急激に需要がなくなった毛筆謄写版を知る社員は、すでに存在しなかったのだろう。なんだか、わけのわからない不要物として処分されてしまったと思われる。 7月25日 ネットワークで「若山八十氏展」ガイドツアーを計画。7人が参加した。鑑賞のあと、館内喫茶室「けやき」で情報交換、雑談に花を咲かせる。同好の会は、こんなときが楽しい。(「若山展」解説:「ガリ版ネットワーク通信」21号11〜13ページ参照) 7月某日 千葉県某高校の生徒からFAXが入った。秋の文化祭展示テーマは「印刷」なのだそうだ。謄写印刷関連の質問は、こんなふうに始まっている。
(事務局・志村章子)
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