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ガリ版ネットワーク日誌 [2002年9月] 9月某日 いわき市立草野心平記念文学館へ。主任学芸員小野浩さんによれば「日本一不便な文学館」だそうだ。日本一かどうかは不明だが、いわき駅からタクシー使用がもっとも時間の有効利用にはなる。「童画の世界 武井武雄展」の会期にすべりこみセーフ。童画家、版画家、書物芸術家が本職と語っていた武井だが、ガリ版文化の視点では、まず版画家50人による賀状交換会「榛の会」主宰者であったことである。孔版画家としては板祐生、若山八十氏が常連であり、特に山村教師であった板祐生を育てた“版画道場”としても評価している。また、敗戦をはさんで20年間にわたって発行された「榛の会」の通信が武井のガリ版自刻、自刷で、その名も「ガリ通」であったことである。武井版画は木版、銅板が多いが、今回展示の“目玉”となった刊本作品(137点)には、孔版や合羽摺りなどもあり、最晩年までの旺盛な好奇心、探求心、果敢にチャレンジする行動力に驚かされた。最後に展示品に武井の中学時代に作った毛筆謄写刷り(椰子の実会/会の規定)があったことを報告しておく。(近年、「榛の会」に関心深く、いくらでも書きたくなるので、この辺でとめておく。) 9月3日 数紙が「ホリイ(元・堀井謄写堂)が2度目の不渡り手形を出して事実上倒産(帝国データバンクによれば負債総額、76億円。)」と報じる。9/4朝日新聞に記事。9/5毎日新聞コラム「余録」。9/6読売新聞コラム「編集手帳」に取り上げる。堀井の倒産の意味を、近代史のなかでの日本人と謄写印刷の関わりを文藝同人誌、小学校教師の学級通信から引き出している。明治27年、堀井新治郎父子による謄写版の開発・発表の前にも簡便印刷器の開発は多々あったが、日本の簡便印刷器の歴史は、堀井父子による発明の年から始まり、それ以前を前史としている。今は、事実を記録するにとどめておく。 9月15日 10月26日の「ガリ版《きほんのき》一日講座」申し込み締め切る。参加希望者は10名。 9月某日 草野心平文学館にガリ版ネットワーク所蔵史料を発送。戦前の謄写版、ヤスリ、原紙など。 9月某日 山形謄写印刷資料館の後藤事務局長から電話があって、「14個荷物がついた」と言う。一度に14個という大量の器材への驚きと、どうしていいかわからないというとまどい。ご存じのようにガリ版ネットワークの器材の大半を資料館所蔵庫の一画を拝借して保管している。同資料館の方は、後藤さんの会社(中央印刷)の敷地内にあるが、所蔵庫は、かなり離れた場所にある。そのため、荷物は、まずは後藤さんの社長室を“仮りの住まい”とする。14個の荷物は、長野県の文具店移転にともなっての寄贈の品々。ありがたいことである。梱包して送ってくださったのは赤羽藤一郎氏の息子さんである佐野清次さんで、感謝にたえない。しかも、後藤さんの社長室や入口の荷物の山を前にして呆然としてたたずむ後藤事務局長の姿が一日中、目の前に立ちあらわれ、申しわけなさでいっぱいになるのである。 (事務局・志村章子)
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