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ガリ版ネットワーク日誌 [2001年2月]


2月3日
NHKラジオ「思い出コレクション」をドンドン、ガンガンという工事の音の中で聴く。青春時代、ガリ版印刷工として働いたルポライター鎌田慧さんがゲスト。戦後、水道橋駅と御茶ノ水駅の中間あたりにあった中央謄写学院の印刷部が、鎌田さんの職場だった。
鎌田さんが当日スタジオに持参した“同僚だった”市川敬三さんの孔版多色刷年賀状の話題に花が咲く。なんとネットワーク会員の市川さんである。若き日の市川さんが“謄写版学校の先生”で、鎌田さんたちの労組活動のお仲間とは存じ上げなかった。(番組の模様は「ガリ版ネットワーク通信」16号に「思い出コレクション 鎌田慧さんに聴く ガリ版印刷の思い出(抄)」として掲載予定)

2月某日
暖かな日にはシジュウカラがさえずり、スズメの声も日々につややかさを増してくる。人も春の気配に動き出す。入会希望者5人、会員の楠元さんから「器材頒布の作業に協力します」とのはがき来る。まだ、お会いしたことはない。こういう申し出には励まされる。さっそくはがきを書く。

2月某日
鹿児島市まで出かける。このところ、ガリ版文化史の揺籃期に活動した人物に関心を深めている。赤羽王郎(本名・一雄 長野県上伊那郡東春近村出身)もそうしたひとりであり、大正期の信州白樺運動を担った青年教師のリーダー格として位置づけられる。
彼らの自由主義教育は受け入れられず、赤羽は懲戒処分となり、以後、僻地や離党教育等に携わり、95歳で鹿児島市で没する。“漂泊の教師”といわれる所以である。
東京美校(現・東京芸大)に学んだ王郎は、謄写版の使い手としても知られている。鹿児島市と松本市で白塔社という謄写プリント店を開き、謄写刷りで民俗資料の復刻などを行う。今では、それらの本は稀覯本として入手もむずかしい。
鹿児島までやってきたのは、昨年、赤羽王郎記念室(鹿児島教育文化研究所内)の存在を知ったから。晩年の赤羽王郎と懇意にした南大三さんらの努力で実現したものである。85歳になられる南大三さんのご案内で、私はやっと赤羽王郎に出会うことができた。印刷物やそれらを生みだした堀井謄写版〈綜合版〉は、昭和のはじめのころのものだろう。古い堀井カタログによれば、大正15年に発売されたものである。

2月27日
「毎日新聞」(神奈川県版)にガリ版ネットワークの活動が紹介される。20件をこえる電話があり、印刷器の山ができた。未使用品、状態の良いものばかり。今回は神奈川県内だが、全国レベルではどのくらいガリ版器材が眠っているのだろうか。まだまだあるのか。もう底をつきそうなのか。とにかく神奈川のガリ版は、大切に保管されていたと思われるものばかりというのも不思議。

(2001.3.26、志村)
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