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ガリ版ネットワーク日誌[2000年5月(1)] 某月某日 「Web謄写印刷館」の編集者、須永さんに東ティモール問題を支援するNGO関係者Nさんからメールが送られてきた縁で、ガリ版ネットワークに連絡があった。 昨年夏の住民投票でインドネシアからの独立を選択した東ティモールは、独立国家にむけての国づくりに歩みはじめたが、問題は山積である。Nさんは「国づくりにガリ版が有効ではないか」と考える。ラオスの教育現場へのトーシャバン普及についてはご存知であった。Nさんにつづき京都のHさんからも連絡があり、「東ティモールから来日中の関係者と会ってガリ版について説明してほしい」という依頼を受けることになった。来日中のMさんは、集会での訴え、国会議員との面談など多忙な日程をこなしていたが、私は宿泊先を訪ねて謄写版の原理、日本における簡易印刷史などを説明した。 東ティモールは、大都市以外は電気のきていない地域が大半、識字率(女性は35%くらい)も低いなどラオスとの共通点も多いが、異なるのは、ラオスではもともとイギリス製の孔版印刷機が使用されていて、庶民レベルではタイプ原紙に直接インクを塗り、小部数の印刷物をつくっていたなどの歴史が存在する。 ところがMさんは、孔版印刷機もタイプ原紙も目にしたことがない、と言う。数枚のコピーを得るには、カーボンペーパーが利用されているらしい。通訳をしてくれた大学教授のMAさんによれば、アルファベットなのでタイプ印刷は普及しているというのだが……。 とにかく持参した小さなヤスリ版にロウ原紙をのせ、Mさんに鉄筆製版を試みてもらった。彼女は、文字だけでなく絵も自由に描けることに興味を示し、教育に使えると語る。 私の知る国策でのガリ版普及はラオスだけだが、関係者の苦労は並たいていではなかったことを見聞している。 選択肢のひとつとしても謄写印刷が考えられるが、東ティモールの人々が選択するかどうか、NGOの情熱と地道な長い活動の可能性はあるのか、今のところ、まったくの未知数である。しかし、困難な状況を打開したいと切望する東ティモールの女性といっしょにガリ切りしたひとときはわすれられないだろう。 某月某日 鳴門市ドイツ館が初のガイドブック『どこにいようと、そこがドイツだ --- 板東俘虜収容所入門』を刊行した。12枚のカラー口絵は当時のポスターで、謄写版による多色印刷である。同館は、第一次大戦の青島攻略によって日本に移送されたドイツ兵捕虜が収容された板東俘虜収容所での生活、花開いたゆたかな文化、地元民との交流史をのこし、伝える目的で1972年に開館した。1993年には新館ができた。 日本初のベートーベン「第九交響曲」の初演地として、謄写印刷では、収容所新聞「ディ・バラッケ」など数々のすぐれた手づくり印刷物が保存されていることで有名である。所内には謄写印刷所と石版印刷所があった。新聞、絵本、ポスター、音楽会プログラム、切手など、印刷についてはまだ不明な点が多い。ガイドブックはA5判116ページ1000円。連絡先・鳴門ドイツ館 Tel 088-689-0099 なお、徳島でドイツ館所蔵の印刷物の研究をすすめるなどを目的に、3月、徳島謄写印刷研究会が結成された。ガリ版ミニコミを発行する坂本秀童さん、図書館職員の小西昌幸さんで、同県の印刷業・武田正一さんのガリ版資料を預かったことから、同資料目録作成も予定している。 某月某日 5月中旬、日本海の孤島に出かけた帰路、鯖江駅に途中下車、85歳になる孔版画家・助田茂蔵さんを訪問した。助田さんは孔版画頒布会「野の花の会」を主宰している。 前回頒布の「野の花」は、サクラタデ(17回刷り)とオオイワカガミ(15回刷り)だった。助田さんは野山に息づき、せいいっぱい花開かせる草々をテーマに作品づくりをつづけてきた。 「わたしの技術はいたって簡単です。徹底的に色を刷り重ねていく方法」であり、オフセットインクや油絵具を十数色重ねるのが普通。 戦中、大阪で謄写プリント店を創業、長く業孔版をやってきて、50代も終わりのころ、野の花に自分の世界をみつけたのである。 「文字だけでなく謄写技術も研究しましたが、40年かかって、今の最もシンプルな方法にもどった」という。よけいな表現はまったくない。なんのてらいもないのが助田さん流。 世の中は味わい深く美しい その塵さえも美しい 助田さんの賀状(平9)には、インドの詩人タゴールの作品を引いている。(塵は仏語で数え切れないほどの、または1ミリの10億分の1の小さいものの単位) 「花に会えてよかった」 それが助田さんの作品の原点であり、核になっていると思う。 (2000.6.26、志村)
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