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BANDOプログラム再現記念イベント 12月17日、「鳴門市ドイツ館」で 第1次世界大戦中に、徳島県鳴門市の坂東俘虜収容所でドイツ兵捕虜が作った謄写印刷物が、当時と同じ手法で再現されている。 試作品(右図)は、徳島謄写印刷研究会(代表坂本秀童さん)が製作した当時の演劇上演プログラム。用具は現在の謄写印刷機を使用した。 資料を保存する鳴門市ドイツ館では、12月17日に再現イベントを開催し、捕虜が残した多色刷り印刷物の再現実演、ふだん公開していない印刷物の特別展示、講演会、シンポジウムなどを行う。これら入場無料(特別展示は入館料300円が必要)のイベントのほか、音楽や食事をしながらドイツ風クリスマスの過ごし方を体験する有料イベント(1,500円)も用意されている。
以下は、BANDOプログラム再現記念イベントで講演を行う志村章子さんが準備中のレジュメです。講演に先立って志村さんから草稿が寄せられたので、紹介します。 1. はじめに ―― BANDO印刷物との出会い 2. 戦争と収容所とガリ版印刷物 3. 百花繚乱のガリ版文化 ―― 大正という時代 4. BANDO印刷物と収容所印刷所 A. その特徴 B. なぜ、謄写印刷を選択したのか (石版印刷ではなかったのか) C. いくつかの謎 5. 「陣営の火」から「ディ・バラッケ」へ BANDOのガリ版印刷物は、日本のガリ版文化史上、他に類をみない得意な輝きを見せる存在である。1910年代、謄写器材も謄写技術も未発達な時代に、3年間の収容所印刷所の仕事は驚くほど大量であり、しかもバラエティに富み、レベルの高さは群を抜いている。 印刷所の活動の根幹ともいえる新聞「日刊電報通信」(TTD)、「ディ・バラッケ」の定期発行、そして孔版多色刷りによる演劇、音楽、展示会等のプログラム、ポスター、絵本、絵はがきやBANDO切手等々。“鉄条網の自由”のもとという状況下で、これだけの仕事を成しとげた彼らの精神と行動力は驚異的としか言いようがない。その源に、「俘虜も勤務の一形態」ととらえ、祖国のために闘っているという考え方に貫かれていたことがある。自由を回復した未来に向けて努力すること、自己を生かし切るために毎日の生活を充実させることなど、“小さなドイツ社会”は、確立した個人の集団であった。 坂東俘虜収容所の多彩な活動は、欧米文化の深さそのものである。BANDOについては、冨田弘氏ら先学の研究成果があり、私自身も諸研究に導かれてきた。ありがたいことである。 私は、この20年近く、日本の近現代、日本人の伝達、表現の道具として全国津々浦々まで普及した“国民的印刷器”――謄写版の歴史に関心を寄せ、取材を続けてきた。第一次大戦の在日ドイツ人俘虜のガリ版印刷物についても、そうした脈絡のなかで出会うことができた。 本日の内容も、BANDOの印刷物を日本のガリ版文化史に位置づけるという試みである。“ガリ版文化”という概念が社会的に認知されているかどうかは定かではないが、日本人の諸活動が、簡易印刷器、謄写版にささえられたことは万人に知られ、それらの事実は「ガリ版文化といえる」とする近代史の研究者も複数おられる。 明治27年に滋賀県の役人であり近江商人でもあった堀井新治郎父子によって開発・発売された謄写版は、日清、日露戦争で軍事通信の道具として大いに使用されるなど“官”への普及から、さらに“民”へ裾野を広げたのが大正時代である。大正デモクラシーといわれる時代は、ガリ版文化も百花繚乱である。それぞれの場所でのガリ版印刷物への工夫、努力が謄写器材・技術発展史につながっていくことになった。 漢字圏であり、手仕事の得意な日本人の社会にあって、1970年代まで謄写版はさまざまな活動をささえる簡易印刷器として機能した。 解放後もドイツ人と謄写版のつきあいはつづいたのだろうか。 (2000.11.28)
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