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いま振りかえる若山孔版画
―― 没後20年、町田市国際美術館で「若山八十氏展」

文/志村章子


「孔版画のパイオニア ―― 若山八十氏展」が、町田市立国際版画美術館ではじまった。同展タイトルには、「なつかしのガリ版!」のキャッチフレーズが付されているのも特徴的である。没後20年のことし、孔版画家若山八十氏(やそうじ 本名・弥惣司 1903〜1983)の生涯の画業と共にガリ版文化をも振りかえる内容となっているからである。
若山の遺作は没後7年の1990年に、遺族によって181点(版画その他)が寄贈され、今回は122点(1944〜1983制作のもの)、加えて、手づくり孔版雑誌『孔版』など謄写印刷史料30点が展示されている。同展は作品数と共に草創期から最晩年まで時系列で展示されたことにより、画家の時代、時代における対象へのまなざし、表現、技法の変化をあますところなく伝えてくれる。こうして同展は、生前の若山を知る関係者だけでなく、広く版画愛好者にも親しめるものとなった。幸い会期が2か月(9月23日まで)と長いので、この機会にご来場をお勧めしたい。

孔版画家若山八十氏
若山は、日米開戦の翌年の1942年に創作版画の「第11回日本版画協会展」(日版協)に出品して入選。同年の国画会展、文展にも出品して、この年が若山の孔版画家としてのスタートとされる。
創作孔版画と文化雑誌『孔版』(編集・自刻・自刷 90号で終刊)の創刊も同年。翌年には、日版協会員に推挙され、「榛の会」(武井武雄主宰の賀状交換会 50人限定)にも、前川千帆(せんぱん 1888〜1960 版画家にして漫画家)を推薦人として入会している。同会は当時、主宰者武井武雄のもとで若い版画家たちが切磋琢磨する「版画道場」の感もあった。
若山は、北海道桧山郡江差町の生まれ。中央大学法学部卒だが、在学中に謄写印刷に興味を覚え、大正末の関東大震災後に本格的に業孔版の道に入った。青年期から文芸 ―― 詩、俳句、短歌など ―― に親しんだ。若山版画が文学性に富むのは、時間をかけて磨きあげた感性と熟成されたゆたかな表現力ゆえであろう。版画家としては、早いとはいえないスタートであったが、最晩年に至るまで、未踏の分野であった孔版画のパイオニアとして歩み抜いた。
水谷清照(孔版画家)は、若山の業績についてふれている。
「若山先生の歩んできた道は正に茨の径であったのです。だいたいヤスリと鉄筆でガリガリ描いた絵が、芸術になるわけがない、と考えている人が、謄写印刷仲間の中にさえ存在したのですから、一般は推して知るべしでありましょう。」(「孔版画家列伝 ―― 若山八十氏」『ガリ版文化史』新宿書房)と。
「謄写版でつくったものなど版画ではない」と木版画の大家が豪語すれば、たいていの版画制作者はうなずいたのである。

具象と抽象と ―― 若山版画を見る
芸術家には、ネコの眼のように画風を変化させる人もいれば、10年1日のごとしといえるタイプもある。若山は、具象から始まり、半具象、抽象、半抽象、そして晩年の抽象へと、具象と抽象を40年という時間のなかで回遊しているように見える。
1940〜50年代の叙情性、幻想性の濃い作品(「石の唄」や「青い風」など)、1960年代を中心とした内側から発光するステンドグラスを思わせる「胎」「花たち」などカタチの時代。半具象に回帰する1970年代は、トリの時代だが、若山ならではの個性的な造形(「風」「彩」など)を生み出し、リズム感すら感じられる。作家60代の円熟期の作品である。
若山は、バランスの取れた人格者と評された。作品についても、極端に影響いちじるしい作家や流派等が見当たらないが、私見では、長く交流のつづいた武井武雄の鳥のシリーズをふと連想させた。2作家の作品に類似はないのだが、自由に若山のふくらませた完成度の高い見事な鳥の造形が、そんな思いに筆者を誘ったのである。
晩年の作品群は、ここに至るまでのすべてを通り抜けて自由な境地で色と形を再構築している。ミロを思わせる楽しい作品もあった。鉄筆によるからみ合うネット状の線も特徴的である。和紙を版とする若山制作の版画が10枚だったり3枚だったりと少量であったことにも驚かされた。この展示会は、40年に及ぶ未知の分野への探求の歴史ともとれたのである。
(03.8.9)
●SHOWA HP