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小学校に根づくラオス製トーシャバン
   ビエンチャン市で
   ガリ版学級通信づくり講習会


文・写真/志村章子


ラオスでは、教育改善、向上策の一環として、全小学校への謄写印刷器普及に取り組んで久しい。すでに配布ずみの学校は80%を超えた。国策で謄写版を全校配布するというユニークな試みは、世界でもラオスだけであろう。
筆者が、ラオスの謄写版に注目しつづけてきたのは、日本から送られた中古の日本製謄写版を使用するのではなく、製造工程すべてをラオス人が担っている国産印刷器だということにある。
しかも、今回、4回目のラオス訪問で筆者が目にしたのは、次々にモデルチェンジされたという〈4号器〉だった。コスト削減、使い勝手のよさを追究した結果であり、日本での謄写器材発展のプロセスを見る思いがした。

「文集」から「学級通信」へ
2月19日、20日の両日、首都ビエンチャンで、50人ほどの教育関係者を対象に「学級通信づくり講習会」が開かれた。
ワークショップでSVAのスタッフが原紙の貼り方、器材の説明をしている。会場は「文集ワークショップ」と同じ教育省ゲストハウス(ビエンチャン)
2月下旬のビエンチャンの街は、乾期(4月から9月)のため、ひどくほこりっぽい。日ざしも強く、日中は30度を越えるわりに過ごしやすいのは、湿度のせいだろう。隣国タイと国境を接する大河メコンの夕陽をバックにトンボの群れ飛ぶ風景は、「また、ラオスに来ることができた」との感慨を深くする。
この前の訪問は、1996年3月開催の「文集づくり」講習会のときだったが、今回の会場も、前回と同じラオス教育省ゲストハウスである。「文集」講習会のときの参加者は、現場の先生たちだったが、今回は、校長中心である。校長が、経験を持ち帰り、先生や子どもと共に「通信づくり」を実践することで、足元から根づかせようというのが、主催者(教育省とSVA)の考えである。(SVA: シャンティ国際ボランティア会の略称。タイ、カンボジア、ラオスへの教育・文化面での国際教育活動を行う日本のNGO)
前回の「文集づくり」につづいて、今回の「学級通信づくり」が取り上げられたのにはわけがある。教育省(一般教育局)のビラット・ウドムスックさんは、次のように語る。
「1996年に始まった文集づくりは、日本からラオスに導入された効果のある教育活動ですが、その実践は、まだ部分的です。今回提案する通信づくりは、文集と同じように子どもの作文を軸としますが、学校、子ども、家庭を結びつけるのが狙いです。学校で教師と子どもがつくる通信を家に持ち帰ることで、親の教育への参加をうながす効果も期待できます。」
ビラットさんは、双方向の効果も期待しているのである。彼は、もっとも早い時期から、謄写版が教育現場の変革を可能にする道具として関心をもち、普及活動に情熱を燃やし、SVAと協働してきたキーパーソンといえる方である。

メコンを渡ったトーシャバン
日本生まれの簡易印刷器謄写版は、ラオスでもトーシャバンと呼ぶ。1980年代半ば、SVAの若いボランティアたちが各地で実演しつつ紹介していたのが始まり。ラオス政府の認可を受け、製造開始は1992年以降であり、全国8,140校(1998年資料)への謄写器普及事業は、SVAとラオス教育省の協力によって進められ、80%をクリアして、やっと到達点が見えてきたところである。
ラオスは、フランスによる長期の植民地支配、その後のラオス人同士が争うという内戦時代にはアメリカも絡み、1975年にラオス人民民主共和国として成立した。
ビエンチャンの官庁街にあるポンサイ小学校5年生の教室。タイプ原紙に牛の絵を描いて印刷する絵画の時間だった。(この小学校は、火事で焼失のあと、日本人の寄付によって建てられた)
以来27年になるが、教育事情は地方に行くほど、教育の基本である校舎、設備、教員が絶対的に不足している。ラオスの義務教育は5年制だが、5年まである小学校は35%にとどまり、1校当たりの教室数は、平均3.6室(1998年調べ)にすぎない。小学校教員は不足と同時に、3分の1の先生は無資格(教員養成学校を出ていない)のである。
山の村々は生産性も低く、教員に満足に給料を払えない状況にあるなど、数十年にわたる内戦期の混乱の影響を色濃く遺している。地形的にも5か国と国境を接する内陸国であり、北半分は高地で雨期には、しばしば交通が途絶する山村の小学校にあっては、トーシャバンは、必要なとき、簡単に各種教材や文集、学級通信などのつくれるすぐれものの印刷器である。

ハードからソフトへ
講習会の参加者たちは、製版(ガリ切り)と印刷器の使用方法の説明を受けた後、さっそく鉄筆をもって作業に入った。原紙はロウ原紙ではなく、たて長サイズ(A4より3cmほど長いフォリオ判)のタイプ原紙(日本人には青色・緑色がおなじみだが、ラオスで入手できるのは白色。前もって、罫を謄写印刷してある)に鉄筆で製版する。
姿勢を正して一画一画を同じ力をかけて刻んでいく日本流とは異なり、ラオ文字が曲線で成り立っているせいか、驚くほどの早書きが目だつ。その弊害もあって文字がよく抜けていない参加者もあり、会場をまわって個別指導をするSVAの現地スタッフに注意されていた。
ラオス謄写版は、部品も含めて国内で入手可能な素材で製造されている。ここに至るまでの普及を成功に導いた重要な鍵といえよう。印刷器の主な木材はマイペェーック(マツ材)、箱はベニヤ板など。マイペェーックは堅牢で腐りにくいという。印刷枠に張るスクリーンは服の裏地、ローラーのゴム部分はエアコンのコードカバーであるウレタンからの転用、芯は木材(ゴムは使用していないのだから、ウレタン・ローラーか?)。柄の部分は、太い針金を曲げてつくる。
消耗品のインク、鉄筆、タイプ原紙は、タイ文具メーカー(ホース印)製だが、都市の市場、小売商店で購入が可能である。問題は、用紙を含めた輸入の工業用品が、食品などに比べて割高なことである。「文集」から「学級通信」を普及するという新提案は、大部の文集づくりより、1枚ものの通信づくりの方が、紙の使用枚数からいっても無理がない。
東アジアの日本からメコンを渡ってラオスに移転した謄写版は、いまや“ラオス人の印刷器”といっていい。基本的なハードウェアを手にして、ソフトウェアの段階に入ったのである。
日本の謄写印刷史では、「1894年の謄写版の開発・発売の年から30年以上、器材も技術も原始時代だった」と複数の初期謄写技術者が語っている。1920年代にやっと美しい印刷物づくりを目ざす草間京平ら若い謄写人の技術革新の活動が始まるのである。技術革新を必要としなかったのは、日本の謄写版の役割が、官庁、軍隊、企業、学校など実用文書づくりを中心とするものだったからである。
ラオスでも、謄写版製作に自信をもてた数年前から、スタッフレベルでは印刷物の出来に関心が寄せられるようになった。
「いかにきれいに印刷するかということである。通信文にしても教材にしても多色刷りや曲線がくっきりでたらもっと用途が広がると考えているのだ。『いい印刷物を作ろう』。その意欲に磨きをかけてきた」(『アジア・共生・NGO』「ラオス国内へ」編者・曹洞宗国際ボランティア会 明石書店 1996)
このように今後の課題に「きれいな印刷」がある。これをクリアしないで豊かな広がりはむずかしいのではないか。

トーシャバンのこれから
小学校への謄写版配布のプロジェクトは、今期でその目的を達成しようとしている。ラオスの謄写版は、小学校だけで終わるのだろうか。ビラットさんは、「ラオス教育のなかで、トーシャバンが挙げた成果は大きいと関係者も認めています。小学校に行き渡ったからといって終わるわけではありません。学校はもちろんそれ以外の分野からの要望が多いんです。たとえ保険省や農業省など役所の末端レベル(村の保険センターなど)では、特に仕事上必要です」と語る。適性技術としてさまざまな分野での需要が広がりそうである。
今回の旅の感想は、ラオスの人々の謄写版の歴史をつくるたしかな足どりを感じたことである。日本からの技術移転という見地からすれば、日本の持てる技術を伝えるお手伝いをできないものだろうか、と考えつつ帰国の途についた。

(追) 1993年、中国の天津市に李紹甲さん(1914〜1997)を訪ねたことがある。李さんは、1930年代に来日して、草間京平、千田規之について謄写技術を学び、新中国になってからも謄写印刷店を経営し、晩年は、小学校で子どもたちに多色刷りを教えたりもした。日本の技術移転の一例である。 (02.3.20)
●SHOWA HP