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鳴門市ドイツ館で 初のガリ版印刷物が主役のイベント(下) 坂東俘虜収容所の謄写印刷物再現まで 文・写真/志村章子 徳島謄写印刷研究会の誕生 2000年3月、県内に徳島謄写印刷研究会(顧問・武田正一、代表・坂本秀童、事務局長・小西昌幸)が発足した。この研究会メンバーの存在なしに再現イベントの実現は考えられない。 まず小西さんとドイツ館ガリ版印刷物との出会いは5年前(1995年)。ドイツ館を訪問し、ドイツ人捕虜の美しい多色刷りにたいへんな衝撃を受けたことに始まる。その理由を、「約80年も前の営みであり、しかも片田舎の捕虜収容所という地理の面でも器材の面でもさまざまな制約のある施設の中での美麗な多色刷、そしてみごとなデザイン・センスをもっていたからである」と書いている(「阿波の自治」第54号)。北島町立図書館(創世ホール)に勤務する小西さんは、その日から“ドイツ館印刷資料応援団”になることを勝手に決め、活動を開始する。 応援団といってもたったひとり。応援者を増やすのが、その活動であり、複数の研究者にドイツ館資料を郵便で送ったり、小西さんと接触した県外の文学者、編集者、アーチストらは、“ドイツ館に連れていかれる”ことになった(小西さんは「ご案内した」と言っているのだが)。折りにふれては新聞、雑誌に寄稿をして、パワフルに“ドイツ館印刷物”のすばらしさを宣伝した。 やがて、徳島県の小さな島(出羽島)に住む坂本さん(坂本謄写堂経営。ガリ版ミニコミ「謄写技法」発行人)との交流が始まった。 筆者は坂本さん恵贈の「謄写技法」に坂東切手(ガリ版多色刷りの収容所内の切手)の復刻があって驚いたことがある)。坂本さんもドイツ館印刷物に深い関心を持ちつづけていたらしい。さらに2人が地元の元謄写技術者・武田正一氏と出会ったことで、研究会発足となった。 会の具体的な活動目標は、「武田さん所有資料の保存と分析」と共に「ドイツ館印刷物の重要性を全国発信する」ことが二本柱である。 筆者と小西さんの出会いは、1999年9月の「第5回本の学校」(鳥取県米子市)シンポのときである。筆者も、シンポの自主分科会のひとつ「板祐生学入門――ガリ版コミュニケーション」(ガリ版ネットワークも共催)に参加した。小西さんとの会話はドイツ館印刷物のことになり、前述小西論文によれば、「もし、ドイツ館のシンポが実現したときには私も呼んでね」と筆者が言った、と書かれている。参加したい、というくらいのつもりだったのだが、講演者として「ドイツ人俘虜の作った印刷物と二本のガリ版文化」をテーマに話させていただくことになった。 ことしの夏に立ち上げた正式名「BANDOプログラム再現イベント」(主催・鳴門市 共催・鳴門市ドイツ館史料研究会、徳島謄写印刷研究会)は官民協力のいい形になったのではないかと思う。 坂東プログラムの謎を解く 再現イベントを前に田村一郎さん(鳴門市ドイツ館史料研究会)は「ディ・バラッケ」(第4巻)中の1919年4月号(そのころは月刊になっている)「われわれの印刷方法」を翻訳して、イベント当日に「この記事で明らかになったこと」を報告した。この記事には、ドイツ人捕虜使用の堀井謄写堂製謄写印刷器のイラスト(右図)もある。
ドイツ人捕虜たちが帰国して80年、すでに当事者の証言を得ることはむずかしい。今後とも、複数の分野の協力による研究こそがのぞまれる。 筆者の役割は、ガリ版文化史の視点で不明の点を研究することであろう。 ドイツ人印刷者の自負したように、世界で最初の謄写版による美術印刷だったのかどうか?(大正期という技術も器具も未成熟期のガリ版多色刷の発掘の必要)、味わい深い坂東カラーを生み出したインクについて等々、まだまだ不明の点が多いのである。 2000年のおわりに開催の「BANDOプログラム再現イベント」は、今後の研究の足がかりとしても記憶される催しとなろう。 坂本秀童さん復刻の3点のBANDOプログラムは、同館ミュージアム・ショップで販売されることも決まった。 (00.12.29)
鳴門市ドイツ館で初のガリ版印刷物が主役のイベント(上)
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