当時の筆耕さん
「弓之助回想録」(1988年11月発行『ショーワ60年史』所収)より

(昭和3年の開店後)しばらく家内のきく枝と二人だけで店をやっていましたが、翌年四月に夜学生の住込み店員を置き、さらに一年して郷里から従弟の幅与四郎に来てもらいました。これが創業時代の苦楽をともにした最初の店員ですが、その後満州事変、日支事変に召集され、昭和二十年十一月、引き揚げの途中、上海で戦病死しました。

与四郎の入社によって印刷専従者を得、端物の製版など私が書いていましたが、ちゃんとした仕事は専属の筆耕さんに頼んでいました。渡辺佐、鈴木赳、鎌瀬賢といった人達が記憶にのこっています。

鈴木さんは楷書が上手で、よその仕事もしていましたが、みんなが仕事を持っていくので、急ぎの仕事が来て明日おさめると言っても書いてないことがしょっちゅうでした。鈴木さんは九段下に住んでいて、夜中の十二時頃行って書かせたこともあります。それで私が居眠りをしていて、目を覚ますと鈴木さんの姿が見えない。どこに行ったかと見ると、押し入れで寝ている。それを引っ張りだして書かして、自分は眠いから寝ているとまたいなくなる。というようなことがありました。

話が前後になりますが、この鈴木さんと霞ケ浦の海軍航空隊へドイツの飛行船ツェッペリン号を見に行ったことがあります。年表で確かめるとこれは昭和四年のことです。朝四時頃起きて汽車で土浦まで行ったのですが、当時は何事もまことにゆるやかで、忙しい時はめちゃくちゃですが、暇な時は昼間から後楽園に野球を見に行ったりしていました。当時野球場では一試合のうちに十回位は呼び出しがあって、どこそこの誰それさん急用ですから家に連絡して下さいとか、お宅が火事ですから至急お帰り下さいなぞの放送があり、私も呼び出しを受けて帰ってみると、つまらない用事で腹をたてたことも再三ありました。

鈴木さんにかぎらず、当時の筆耕さんは文学青年や、文士くずれ、書家くずれといった人達で、字が上手で仕事のない人達がやっていました。コールテンのルパシカを着てロシア人みたいなモダンな格好をした人も多く、酒好きが多く、たいがいは間借りだったと記憶します。それで少しよくなると独立して店を出しましたが、看板は決まったように「謄写版とその印刷」(謄写版の販売と印刷の意味)というものでした。私のところでも同じ看板を店先きに出していました。
「昭和堂月報」の時代
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