相次いだ出版法違反事件

戦時色が強まるこの時期、言論統制の強化と近代的な著作権意識の向上があいまって、各地で出版法や著作権に関する事件がつづき、謄写印刷業界にも大きな影響を与えた。以下は、主として日本軽印刷工業会(現JAGRA)編『軽印刷全史』による。

昭和12年4月、東京の業者団体で、ある会員が出版したプリントを他の会員が盗用して内紛に発展し、調停にあたった著作権擁護派の幹部が脱退する事件があった。著作権問題がどう決着したかは不明であるが、7月に日中戦争(蘆溝橋事件)でこの幹部が召集されると、組合は脱退した幹部に復帰を乞い、盛大な歓送会を開いて中国に送り出した。

その蘆溝橋事件から間もなく、同じ団体の機関誌に載った「国家総動員の秋に際して」と題する記事がもとで、関係者は警視庁に呼び出されて注意を受けた。記事の内容は、国際情勢などを分析しつつ国民の心構えを説いたものであり、思想的内容が問われたわけではないが、機関誌で時局を論じたことが出版法に触れると見なされた。

翌昭和13年、プリント出版の営業基盤を一掃する事件が起きた。東大教授我妻栄がプリント出版業者を告訴あるいは出版禁止を通告した事件である。これは21名の教授・助教授が計5社を告訴する騒ぎに発展し、業者側は都下4大新聞に謝罪広告を出して、講義プリントの無断出版を停止した。これによって、他の業者もプリント出版の継続を断念し、明治末期から30年近くにわたって続いてきた業態が消滅した。

翌15年には、大阪で事件があった。京都大学の物理学者グループからドイツ語原書の複製を依頼された謄写印刷業者が、記号、数式、グラフ、図版の入り交じる四六倍版の大著を仕上げたところ、ヨーロッパ各国の原著者と出版社から告訴された。検事局は日本の学会の名誉が傷つくことを恐れて、業者に自力で解決するよう指示し、業者は多額の賠償金と示談交渉の経費を負うことになった。

これら一連の事件の背景には、当時日本の音楽界・出版界に吹き荒れていた「プラーゲ旋風」がある。ヨーロッパ各国の著作権会社から委任状を取り付けたドイツ人弁護士ヴィルヘルム・プラーゲは、昭和8年頃から演奏会やラジオ放送をチェックして、著作権料を請求あるいは放送の停止を求めるなどの活動を始め、しだいに出版方面にも手を広げた。プラーゲの活動は初め激しい抵抗に会ったが、やがて関係法規が整備され、昭和14年末には、大日本音楽著作権協会と大日本文芸著作権保護同盟が設立された。プラーゲはその後、不法に仲介業務を行ったとして起訴され、排外主義の高まりの中で日本を去った。
「昭和堂月報」の時代
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